おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

402_法悟28-17-2

第 3 週 賢者の道を歩む

3 善行為という処方せん

かつて悪を犯した人であっても、
後に(たくさんの)善を行うならば、
その人はこの世を輝かす。
雲を離れた月のように。

(一七三) (第13章 世の中 より)

また、勝手にいきます。

いくつかに分けて考える。

1. 悪を犯すということ

今まで、何回も述べてきたので、読まれたことのある方には、耳タコかもしれないが、お許し頂きたい。

肉体人間は、本来の神様の分け命たる霊なる人間が、幽体、肉体とまとって、自己保存の本能を追加付与された存在である。

そのために、本来の神様の分け命たる神様の子供としてはふさわしくない、真善美に悖る、数知れない想いと行いの業想念を重ねることになってしまった。

業想念には、自己に対する対内的なものと、自己以外に対する対外的なものが考えられる。

この経文にあるのは、悪を犯す、となっているので、とりあえず、これは対外的なものとすることができる。

例えば、他人に暴力をふるったり、他人の物を盗んだり、他人を殺(あや)めたりするのが、その典型例だと言えるだろう。

従って、ここで悪とされているものは、業想念であるのはもちろんのこと、かなり重い、質(たち)の悪い想いと行いが相当することになる。

この世で肉体人間として生きていくと、想いや行いは、たくさんの輪廻転生を通して、巡りに巡る。

想いが潜在意識にまずは記録され、顕在意識に映り、それが行いとなり、その世で行いになりきれないものが、次の世以降に持ち越され、次の世以降では、それがさらに次の世の顕在意識と積み重なり、折り重なって混在して・・・という感じで、想いと行いの循環が繰り返される。

業想念でないもの、真善美に悖らない想いと行いは、例えば、うれしい、楽しいことは、ああよかったね、で、おおむね因縁因果として完結する。特に問題は起きないし、神様のみ心に適(かな)うものだから、際限なくわいてくるものだ。なぜならば、神様は無限だから。

問題は、神様のみ心に適わない、真善美に悖る、想いと行いの業想念の方である。これは、神様の本質にはそぐわないものだから、無限にわいてくるものとは違う。肉体人間として作り出した、いわば、有限(とはいってもめちゃめちゃ多いけど)なものだ。

例えば、他人(仮に A とする)を殴るという業想念は、(原則として)輪廻転生を通して、今度は後々の世(来世以降)で、自分が A から殴られるという形で返ってくる。いわば、清算の形で、プラスマイナスゼロにならないと、完結しない。

これを、ちょっと角度を変えて見てみたい。

肉体人間は神様の分け命を与えられた、神様の子供の兄弟姉妹を、その本質とする。分かれてはいるけれど、大きく見れば神様の中に入る訳だ。つまり、すべて一体、加害者も被害者も全部一体、として考えると、業想念は、自分に対する想いと行いが返ってきていることになる。

間違った悪い想いと行いが、そのまま、自分(一体)に返ってきているのである。神様の子供として、神様としてふさわしくない想いと行いは、清算される定めにあるということになるのだ。

だから、殴ったら、殴られなければならないし、盗んだら盗まれなければならないし、殺したら(肉体人間として)殺されなければならない。

ただし、原則として、輪廻転生を通して。

つまり、対外的に悪を犯してしまうと、自分もそれ相応の罰(ペナルティー)を受けないと、因縁因果が完結しない、話が終わらない訳です。

まとめると、悪を犯すと、それ相応の悪を自分が後々に必ず受けなければならくなる、つまり、犯した悪は、輪廻転生を通して、悪を被害として受け入れないと終わらない、ということです。

では、これは絶対なのか、軽減措置はないのか、罪状のお振り替えはないのか、となってくる。

ここで例に挙げたような重度のものは、難しいのかもしれないが、とりあえず、考えてみたい。

まずは、軽減措置の方。前に、肉体人間の 想い→行い が過去世からの因縁を持ち越して含んだ、この世のあらわれと書いた。

この、過去世から持ち越した、過去世でのあらわれとして具現化せずに持ち越された想いを、この世での具現化、あらわれの前に浄(きよ)めて消して下さるありがたい存在がある。

それが、守護の神霊さん。もちろん、何でもかんでも、助けて下さる訳ではなくて、その守っている個人の魂の成長をも鑑みながら(従って、受けるべき因果と判断されたものは受けさせられる)、裁量の範囲内で守って下さっている。

夢を見ることも、その一つで、守っている個人には、それとはわからない形に変えて、夢として見させることで、過去世の想いのこの世での具現化を防いで下さっている。想いは肉体人間の脳裏にあらわれれば、消える性質を持っているからだそうだ。

次に、お振り替えだが、五井先生(の本)によると、本来受けるべき重罪を罪一等を減じ、何らかの災難などに集めて、まとめて受けさせる場合があるらしい。

こうして見てくると、守護の神霊さんの救済がない限りは、悪の償いは、等価であり、免れない、ということになる。

だから、悪を犯してしまったら、被害として悪を受け入れるのが原則、ということになる。

ここには、善なる想いと行いで、犯した悪を取り替える、消し去る形の救済はない。

つまり、自ら行った悪は、自らによってしか、落とし前をつけられないのである。

これが原則ということになる。

2. 肉体人間の進化

では、悪を犯してしまったら、肉体人間としては、救われないのか、となると、上述のように因果として受けることで自分で落とし前をつける場合、あるいは、守護の神霊さんのご加護にあずかることができる場合であれば、とりあえずは救われ、犯した悪を一つなくすことができる。

だから、理屈で考えれば、善なる想いと行いを、どんなに積み重ねたところで、犯した悪の償いにはならないのだ。

あくまでも、犯した悪と、後から積み重ねた善なる想いと行いは、異質である。

別物だ。

因縁因果には相当しないし、想いと行いが、輪廻転生を通して返ってきている訳でもない。

理屈で考えれば、このようにならざるを得ない。

だから、あの経文は、犯した悪の因縁因果の話には一切触れることなく、話を反(そ)らしている嫌いがあるような気がするのだ(個人的には)。

もしも、建前通り、お釈迦さんがあの言葉を言ったとすれば、何のご意志があったのかはわからないが(そこまでクドクド説明しないで、もっとわかりやすく、前向きな霊性の向上をさせるために割愛した可能性があると考える。彼ほどの人がこれらを知らないはずがないから)、とりあえず、先に進もう、寿命がある(生かされている)限りは、善なる道を歩むことが最上なのだから、これに意識を振り変えて、向けさせたのではないか、と考えられる。

お釈迦さんは、寿命がある限りは、肉体人間は、肉体を持ちながらも本来のあるべき姿(神性・仏性)をあらわすことに向けて、進化していかなければならない存在である、とお考えだったんでしょうね。

3. 霊性の開発

神様のみ心に適った想いと行いを積み重ねていくと、神様の光が、元々そなわっている霊光が、にじみ出るようなんですね。

そうして、よき想いと行いの積み重ねによる神様の光が、波のように他の神様の霊光を宿した人に感応して、その心を暖かくする、愛を覚えさせる作用があるらしいんです。

だから、一人の肉体人間のよき想いと行いの積み重ねは、周囲の人々に働きかけて感化をしていくようになるらしいんです。

だから、経文にあるように、みんなの気持ちを徐々に愛で満たしていくようにすることで、世の中も自然と愛にふさわしい明るく暖かいものになっていくと考えられます。

追伸

私は個人的には、アングリマーラの話は、信じることができない。疑問点がたくさんありすぎて納得できないのです。

師匠からおかしな課題、すなわち、人の指を切り取り、指の首飾りを作れば修行を完成させてやるという話をされた時点で、破門という道を自ら選択することはできなかったのか。途中でも、いくらでも殺人をやめて引き返すことはできたはずではなかったのか。

人殺しは、当時のインドでは、厳罰に処されず、そのまま野放しでいられたものなのか、ましてや、殺人犯のアングリマーラは誰の目にも明らかだったようだから、これを実行し続けるというのは、周辺状況を考えるときわめて不可解である。

被害者の遺族はもちろんのこと、さらに累(るい)が及ぶ可能性のある社会から何の制裁も受けていないことが、理解し難い。

こうしたことに関する社会や背景などの説明がないと、きわめて理解し難いんです。

そして、最後の 100 人目に、お釈迦さんがあたった件。お釈迦さんがそれを知って犠牲者を買って出たとされているようですが、それにしても、 100 人(お釈迦さんにたどり着くまでに 99 人)という数は、あまりにもひどすぎる。

戦争に駆り出されて、強いられた訳でもないのに、常軌を逸しているとしか、考えられない。

100 というキリのいい数字といい、何か説話的な感じがするんです(あくまでも個人的には)。

上述の1.、2. の理屈のようならば、アングリマーラが、その過去世において、その当時殺した人達に、過去世において殺されていたとならない限りは、きわめて理解し難いんです。

確かに、人は誰しも、本質としては、神様の分け命を与えられた神様の子供で、神性(仏性)があるから、悟りを得れば阿羅漢になれるはずですが、それにしても・・・と考えてしまうんですよ。

お釈迦さんの様々なお考えとご判断が何かしらあったのだとは思いますが、もう少しわかりやい説明が欲しかったと個人的には考えます。

なお、アングリマーラのことに関しては、過去に触れています( 191_原仏12ー5 )。

まあ、グダグダ言いましたが、何分、理解力の乏しい者の話なので、ご容赦下さい。

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①追記: 2021/06/03 12:11
②追記: 2021/06/04 01:10
③追記: 2021/06/04 01:12

〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。