おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

400_法悟28-16-2

第 3 週 賢者の道を歩む

2 すべての罪はうそから始まる

ただ一つの真理を逸脱し、
うそをつき、
死後の幸福さえも捨てている者には、
犯せない罪はない。

(一七六) (第13章 世の中 より)

また、勝手にいきます。

S さんの言われている内容を勝手に煎じ詰めてまとめると以下のようになる。

ウソつきは、泥棒の始まりであり、罪の始まりであり、最悪は戦争にまでつながるものだ。

とにかく、どんなに微小なものでも、ウソはウソだ。

理屈は曲げられない。

事実(ここでは真実の意味だろうね)と 1 ミリ、いや、 1 ミクロン、いや、どんな微小な単位をもってしても、事実との相違は絶対に許されないんだ、と言いたげに見える(俺には)。

古(いにしえ)の時代もそうだが、人間が社会生活を営むには、情報の価値の重要度は論を待たない。

ましてや、現代のように、社会が高度に発展し、複雑怪奇に組織化された社会では、情報の重要度は、古の比ではない。

絶対権力を握り、恣意的に世の中を支配したいと考える人々がいれば、こうした人々は、自分以外の人々をあたかも物のように、使用・収益・処分することまでをも、考えるまでにいたるだろう。

人間=肉体人間という肉体人間観に縛られ、唯物論でしか物を見ることができない限り、この恐れをなくすことはできない(と思う)。

彼らの手にかかれば、霊的なものも、唯心論さえも、その手段と化して、利用されてしまうだろう。

そうした状況で、この大規模な人口を抱えている地球さんを思うがまま、人々を思うがままに支配しようとすれば、情報の操作は絶対に不可欠だ。

問題は、そうした現代の一般に流されている情報が、事実と比べた時に信憑性がどうなのか、となるのだが、これについてはあまり言いたくないし、わかる人にはわかる話だから割愛させて頂くことにする。

個人的に感じるのは、ウソは、真善美に悖(もと)る人間の想いと行為の業想念そのものであるが、そのあり方も、業想念に似ているな、ということだ。

何度も書いてきたが、本来の神様の分け命なる霊なる人間が、肉体人間としてこの世を生きていくための便宜上、神体としては元々はなかった自己保存の本能を与えられたために、業想念を積んでいくことを余儀なくされることになってしまった。

そうして、大きな目標は神様の世界をこの世に映し出す、あらわしてゆくことだが、その地球さんの開発に人類が社会生活を営んでいくにあたって、自己保存の本能から、どうしても身の周りの利害得失計算に明け暮れるために業想念を生じ、これが因縁となって、世を隔てて、因果となり、病争貧苦の形で受けて完結させる形で消して、苦労しながら、進化していくことになる。

霊なる人間は、肉体を与えられてしまうと、神体そのままの、完全な働きはできず、どうしても、業想念を重ねることになってしまうのだ。

つまり、地球さん開発のため、神様の世界をこの世に映し出すための、人類の進化の過程では、業想念が生じるのは、不可避であるということになる。(※)

これと同じように、自己保存の本能にとらわれ、わが身を中心とした利害得失計算で行動する唯物論にどっぷりとつかっている現代人は、霊性の水準がまだまだ低く、生活のあらゆる面においてウソをつかないと、生きていかれない。

自分の身を守ること、立場をよくすること、見栄を張ることをはじめとして、ありとあらゆるウソをつく。

現代では、完全に隔離された修行生活ができる環境に置かれた人でないと、ウソをつかないでいることは不可能だ、と思うのだ。

浄土門的な、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行は、段階的に少しずつ霊性を開発していく。この方が、自力で修行をして悟りを得る聖道門(難行道)よりは、無理がないし、現実味がある(特に現代では)と考える。

これと同じように、ウソをつかないことも、できるところから、少しずつ詰めていく(心がけて実行していく)形で、霊性の開発と並行しながら、努めていくことが、一番無理がないし、適切だと思うのだ。

いきなり、ウソは一切合切ダメです、許されません、と高い理想を掲げられてしまったら、ほとんどの人はついていくことはできないだろう。

無理に、ウソをつかないようにすると、様々な人間関係や社会関係で軋轢(あつれき)を生じていまい、かえって多大な業想念をさせることになりかねないと思うのだ。

だから、理想は理想としてひとまず置いて、段階的にウソをつかないように、努めていくことが望ましいはずである。

なお、相手の置かれた状況を慮(おもんぱか)り、緊急避難的なウソは愛の面から認めてもいいのではないか、と以前書いたことがあるが、これはやはり、理屈だけからすると、やはり、認めないのが正当だ。

だから、この場合には、相手を慮ったウソをつく場合は、自分もそのウソの罪を引き受けるという、相手の立場までをも包み込む、自己犠牲の側面を含むものとなる。

つまり、相手のために、あえて自らウソを引き受ける、ということだ。

これも、理屈はともかくとしても、愛の一つのあらわれだと言える。

また、経文にある、「死後の幸福さえも捨てている」というのは、今生(今回の人生)で、新たにウソをついてしまったら、輪廻転生を通して、来世以降にその償いとして、程度の差こそあれ、何らかの病争貧苦のような形の因果を受けなければならなくなることを指している、と解釈できる。

神様のみ心に適(かな)わない、真善美に悖る想いと行いは、原則として、輪廻転生を通して清算されることになっているからだ。

だから、ウソをついて、何もない、今生も来世以降も何もペナルティがないと思うのは浅はかで、因果としてのペナルティは、程度の差こそあれ(祈りと感謝行で浄めて消せる場合以外は)必ずあることを示している、と読むことができる。

こうしたことまでをも踏まえると、やはり、祈りと感謝行をやっておいた方が、無難であり、望ましいと思います。

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(※)神様は、こうしたことを始めからすべてお見通しであったから、肉体人間のつくりだす業想念の多さに鑑みて、それを裁量の範囲内で浄めて消して下さる守護霊さんと守護神さんを、個々の肉体人間に配された。

肉体人間のつくりだす業想念は、あまりにも多いので、そのままに、すべてこの世で具現化させてしまったら、争いに次ぐ争いや、(浄めるための波動調整の)天変地異でこの世が滅びてしまう。

だから、少しでも、魂の立派な肉体人間として進化していけるように、人類全体のご守護とともに、各個人を守って下さっている。

従って、やはり、感謝行はやるべきですね。

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①追記: 2021/06/01 18:32
②追記: 2021/06/01 18:39
③追記: 2021/06/02 01:30
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。