第 3 週 賢者の道を歩む
6 人生で最も危険な煩悩
性欲に等しい火はない。
怒りに等しい損失はない。
五蘊(ごうん)に等しい苦しみはない。
心の平安に勝る楽はない。
(二〇二) (第15章 幸せ より)
勝手にやります。
やっぱり、いつも書いていることを前提にしないと、話が始まらないので、また書きます。
神様はその世界をこの世にあらわすべく、地球さんの環境を整え、自らの写し身としての肉体人間をこの世に遣(つか)わすこととなった。
そうして、神様の命を分け与えられた各人(肉体人間)が、協力をしながら地球さんを開発しいく。
この世のものは、植物も動物も、もちろん、肉体人間もその寿命はあくまでも「有限」なので、有性生殖か無性生殖の形で世代を引き継がせていくことになる。
五井先生によると、確か観音様は、陰陽合体の絶対神だから、神様の分け命の霊なる人間も、性別はないものと思われる。
だから、生まれ変わりの輪廻転生を通して、男になったり、女になったりと、異なる性別も含めて、肉体人間として様々な経験を積むことで、霊性の向上を目指していく。
このように見てくると、神様は肉体人間に関しては、有性生殖の形を選択し、男性と女性にそれぞれ違った役割を持たせながら、協力し合っていくことを想定していると考えることができる。
従って、肉体人間の世代を引き継がせる有性生殖は、男女の互いの一体化という愛情の交歓としての側面は認められても、ただの動物的な(?)快楽追求一辺倒なもの(?)は、想定外だと考えることができる。
つまり、性欲にもとづく快感や快楽は、あくまでも、愛情の交歓を前提としている、ということだ。
その愛情の交歓の結果として生殖が成り、子孫を授かることができる、と考えるべきだ、ということになる。
このようなとらえ方は、ちょっと厳し過ぎるかもしれないが、理屈で考えるとこうならざるを得ない。
そうすると、どうなるか?
浮気、不倫、二股(もちろん、三股以上も)、ワンナイトラブ、ヤリチン、ヤリマンなどの性行為は、まったくの道から外れたものとなり、論外ということになるのですよ。
こうなってくると、やれ動物行動だ、やれ遺伝子だ、と肉体人間の本質、すなわち、神様の分け命としての人間のあり方を否定するかのような理屈を持ち出して、肉体人間に援用しようとする行為がどのようなものであるかは、自ずと明らかになる。
肉体人間の本質、すなわち、神性の否定だ。
動物がどんな生殖のやり方をしようが、その社会構成の形態をとろうが、神様の写し身としての肉体人間は完全に別物なのである。
無関係だ。
こうした神性の否定をする人達に私は言いたい。
神性を否定して、どうするの?
あなた方は、一体、何がしたいのですか?
まさか、男女関係の乱れた放縦化を目指しているのではないですよね?
ご立派な作家さんや研究家さんや学者さんなんだから・・・。
まあ、愚痴るのは、批判と同様に無効なので、言ってもせんないことなのですが・・・。
このように見てくると、性欲は肉体人間としては強いものがあるとはいえ、その基本はあくまでも、男女の愛情の交歓とその結果として生殖に結びつくために与えられている、と考えるべきということになる。
そりゃあ、過去世の因縁により、不倫があったり、浮気があったり、といろいろとあるかもしれない。
しかし、肉体人間の本来のあるべき形を考えると、上記のように考えざるを得ないのですよ。
従って、すべてを性欲でまるめ込んで帰結させるフロイトのような見方は、神性を考える上では明らかに不適切だ、ということです。
S さんの書いていることを読んでいると、まるで性欲が、肉体人間、動物を問わず、凶暴さを発揮する手に負えない欲望のように読めるが、肉体人間に関しては、神様の分け命を本体とするものとして、あくまでも、特別に考えるべきだと思うのですよ。
次に怒りです。
怒りは、当然に、真善美に悖る想いと行いの業想念です。
従って、輪廻転生を通して、その怒りがなかったものとなるように、償わなければなりません。
怒ったら怒りっぱなし、怒りによって暴力などをふるってしまったら、やりっ放しでは済まないのです。
こうしたものは、輪廻転生を通してなかったものとなるように、必ず、償いとしての想いや行いを、逆の形で味わわなければならなくなるのです。
何故ならば、神様には、怒りも、怒りにもとづく暴力も、本来はない、あってはならないものだから。
だから、もしこれらを生じさせてしまったら、輪廻転生を通して清算しなければならない。
性欲を抑えることも、怒りを抑えることも、ともに大変なこと。
妙好人のような敬虔(けいけん)な信仰者の境涯にはなれない一般的な私達としては(中にはそのような境涯の方もいらっしゃるかもしれないけれど)、自制心だけでは、その抑制は間に合わない、不十分な場合が多いのではないでしょうか。
なので、道を外れた性欲や怒りである業想念を浄めて少しでもなくすためにも、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行をして頂きたいと願います。
次に五蘊です。
五蘊というと、難しい話が好きな人にはいいのかもしれないが、きわめてゴチャゴチャとして煩瑣(はんさ)でわかりにくいので、勝手にまとめさせてもらいます。
要は、人間=肉体人間であるとの肉体肉体観により、肉体をまとって付与された自己保存の本能と自己を中心とした利害得失計算に明け暮れる肉体人間のあり方により、想いが乱れる。
肉体にまつわる五感の満足を得る欲望を始めとして、憎い、欲しい、妬ましい、などなどと、想いを乱すことで、業想念を生じさせる。
人間=肉体人間であるとの肉体人間観でしか物事を見ることができない限り、この肉体にまつわる各種の想いの乱れをなくすことは不可能である(悟りを得た人以外は)。
S さんによると、五蘊は、
1.肉体
2.感覚
3.考え方
4.感情
5.心
の 5 つの要素からなるとされているが、この五蘊にかかわるものは、つまるところ、肉体人間の想いである。
肉体が人間だと思うからこそ、肉体感覚にもとづく感覚や感情が生まれるし、それにまつわる執着から、各種の欲望に振り回されることになる。
肉体をまとっているけれども、真の人間は肉体ではないのだ、この肉体を生かしている、動かしている、神様の分け命そのもの、霊なる人間そのものこそが、真の人間だということになれば、肉体にまつわる各種の想いは、関係がなくなる。
この世に仮に肉体としてあらわれているけれど、肉体人間は本当の人間そのものではないのだ、と感得できれば肉体にまつわる感覚や想いは、すべて捨象できる。
取り除くことができるのだ。
この世にあらわれてくる、良いことも、悪いことも、すべては過去世の因縁のこの世(現世)で時を経て消えてゆく姿であり、これも外に見ることができる。
つまり、五蘊にまつわることに惑わされずに、苦しみから離れる、解脱することができたことになる。
肉体を持ちながら、こうした五蘊を超越した世界を感得することが解脱であり、悟りを得たことになる。
だから、もう、何が起きても、苦しいこともないし、悲しいこともないし、怒ることもない。
ただ、あるのは神様の分け命である霊なる人間の自分だけ、そして同様な人様だけ。
安穏と平穏はあっても、感情を波立たせることはない。
S さんの言う、苦楽を外に求めるというのは、肉体感覚にもとづく感情や欲望に振り回されるということ。
自らの神性(仏性)を真に感得することができれば、肉体感覚を離れ、常にあるのは、神性(仏性)のみしかないから、この世は神様(仏様)しかなかったんだ、と安らかな境地に至ることかできる。
これを真に理解して、感得できていることが悟りの境地、涅槃(ねはん)の境地ということになる。
おそらく、お釈迦さんは、肉体という足かせを持ちながら、この世において神様(仏様)の想いと行いをあらわし得た覚者であり、これが一般的なブッダと呼ぶべき人、ということになるのだろう。
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・交歓~こうかん~互いにうちとけて楽しむこと。
・放縦~ほうじゅう~勝手気ままなこと。また、そのさま。わがまま。
・捨象~しゃしょう~事物または観念から本質的な共通性を抜き出して抽象するとき、共通しないそれ以外の特殊性を切り捨てること。←→抽象。