おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

529_仏言葉ー063 ー 神様の世界は厳しい

第 4 章 これから先がどうなるか不安

63.欲望は罠を張る

愛欲の享楽に執著し、
愛欲を貪って、
迷っている人々は、
道を外れるのに気づかない。
鹿が罠にかけられても(気づかぬ)ようなものである。
後に彼らには苦渋がある。
その報いは悪い。

(サンユッタ・ニカーヤ)

ちょっとお説教じみた経文ですね。

飲む、打つ、買う。
すなわち、
酒に溺れ、博打に溺れ、買春(かいしゅん)に溺れる。

こうした欲望の、
肉体にまつわる快楽からくる、
甘美な誘惑に駆られて、

すなわち、

酒で我を忘れて高揚し、
博打で労せずして大金を手にして、
買春でオルガスムス(性的快感の絶頂。男性なら射精感覚)に酔いしれて、

それぞれに、
夢中になってしまうと、
残念ながら(?)、
神様の分け命を本体、本質とする者である肉体人間としては、
そのままでは済まない、
という厳しいお達し、
ということですね。

この経文の本当の趣旨は。

ここでは、
愛欲(異性に対する性的な欲望)を、
取り上げていますから、
現代で当てはまるのは、
さしづめ、
ヤリチン、ヤリマン、パパ活のパパ、
と呼ばれる人達といったところでしょうか・・・。

では、
苦渋、悪い報い、
とは一体何のことでしょう?

これらは、
何を意味しているのでしょうか?

佐々木さんは、
この経文について、
欲望にまみれて身を滅ぼすことに気づかない人間の様子を、
鹿が罠に気づかないまま遊んで猟師に捕えられ殺されてしまうことに例えたものだとして、
人間は常に先に待ち構えた報いを考えて行動しなければならない、
としか書いていない。

「身を滅ぼす」と「報い」の、
具体的内容については、
まったく書いてありません。

なので。

私流に考えてみます。

あくまでも、試みです。

悪い想いを抱かれたら、
即座に、
世界平和の祈りと
守護霊さんと守護神さんへの感謝行で、
想いを浄めて頂くことを切望致します。

まずは、大前提です。

神様は、
そのお命をたくさんにお分けになって、
肉体人間に宿らせて、
この物質の地球世界(霊体の地球さんもあるそうです)を開発して、
最終的には神様の世界を
この物質地球世界にもあらわす、
映し出すことをお考えになった。

つまり、地上天国化のご計画です。

そこでは、肉体人間としての人類を、
限りある肉体人間の寿命を有する存在として、
有性生殖の形で、
男性と女性に分けて、
世代を引き継いでいくように
設計をなさった。

ただし、
お猿さんやライオンなどといった
普通の動物とは、
一線を画する、
あくまでも神様の子供としての、
神性を備えた者として、
その生殖には、
男女を結びつけるための
愛情と慈しみを前提に、
特定のお相手と末永く、
人生の艱難辛苦を伴った
修行の伴侶としての役割も兼ねつつ、
子孫を残すという形で、
世代を引き継がせつつ、
一緒に生活していくことを
予定された。

この典型的な形が、
一夫一婦制による婚姻制度、
つまり、
結婚制度、
ということになります。

従って、
基本は、
愛情の交歓としての生殖行為である
セックスの結果として、
二人の子孫としての子供の命を
神様からお預かりをする。

神様の命の不思議を、
自らも享受して、
生かされているだけではなくて、
さらには、
加えて、
二人の愛の結晶として、
子供という形で、
新たに神様のお命お預かりをする、
ということです。

そして、
二人で共に協力合って、
子供を育てていく、
ということになるのではありませんか?(*1)

だから、
相手に飽きたから、
相手が年をとったから(自分も年をとったのにそれは忘れているらしい)、
より容姿的に、性的に、金銭的に、
魅力のある相手に次々に乗り換える、
とっかえひっかえすることは、
想定されてはいない、
はずです。

それに、
私達のごく普通の感覚として、
これ(=とっかえひっかえ)はおかしい、
と感じるんじゃないですか?

それは、
私達が神様の分け命を本体とする、
本質とするからこそ、
自然にわき上がってくる感情である、
と思うのですよ。

ということは。

私達人類は、
一応、
一夫一婦制を前提としながら、
男女の組み合わせをとっていくべきだ、
となりますね。

実際には、
神様の何らかのお考えなのか、
江戸時代など多大な男性余りの時代があったり(現代もたくさんの人の所得が絞られたせいでこれに近づいているのかもしれない)、
過去世から様々な男女関係の間で繰り広げられた、
自由奔放で身勝手な行動のために、
浮気、不倫、愛人多数などなど、
乱れた関係がこの世には、
多々ありますけどね。

それだけ数えきれないほどの、
男女の乱れた性的関係の因縁が、
それぞれの過去世に溜まっていた、
ということが言えるでしょうね。

話を戻すと。

ヤリチンやヤリマンや、
パパ活のパパといった、
一夫一婦制の考えから大きく外れた想いと行為をしてしまう、
特に、
お相手の過去世の因縁の償いとしてではない、
自らが今生から新たに身勝手な快楽追求の性行為(つまり、セックス)に走ってしまうと、
それは、
それらの野放図なセックスが、
来世以降にすべてなかったものとなるような償いがあらわれてくる、
と考えられるのです。

こうしたことは、
神様の分け命を頂いている、
肉体人間としては、
本来的にしてはいけないこと
だからです。

つまり、
セックスをしたくてもできない、
あるいは、
セックスをしたくもないのにさせられる、
というような境涯におかれる可能性が出てくる、
ということになります。

これは、ものすごく、つらいですよ。

おそらく、辛吟します。

みんな楽しそうに、好き勝手なお相手を選び、何一つ、バチも当たらずに遊びまくっている。

なのに、
何で自分は、
今生でそんなに悪いことをした訳でもないのに(?)、
こんな思いをしなければならないのか。

つまり、どういうことかというと。

セックスというのは、
肉体人間の男女が、
共に神性をそなえる者として、
一対一として愛を育む一環としてある行為であり、
男女の愛情の交歓としてあるものであり、
その結果として、
新たに神様のお命としての、
子孫を授かるものであったのだ、
従って、
それなりに
「大切にすべき神聖な行為」
だったのだ、
ということを肉体を通して、
これでもかと、
イヤというほどに味わい、
理解させられるための、
魂に染み込むような、
人生経験をさせられる境遇に、
輪廻転生を通して、
置かれる可能性がある、
ということです。

しかも、
自分が過去世で何をしたのか、
なぜこのような境涯に、
置かれなければならないのか、
の原因となる記憶は消されていて、
ないんです。
つまり、
なぜこのような目に、
遭わなければならないのかの、
理由がまったくわからないのです。

あの経文にある、
苦渋と悪い報いは、
こうしたものである可能性が
考えられます。

あの経文にある、
道を外れても気づかない、
というのは、
今生で新たに起こした、
愛欲の暴走、
つまり、
セックスに狂奔することへの報いが、
今生の中ではあらわれずに、
来世以降にあらわれてくるから、
今はわからないんです。

隔世を経る、
輪廻転生を通してあらわれてくるから、
今生ではわからないんです。(*2)

以上、
男女間の愛欲の貪りと、
その輪廻転生への反映について、
考えてみました。

以上の内容は、
あくまでも、
私の頭の中だけで考えたことなので、
一個人の推定にしか過ぎません。

その点は、
ご理解、
ご了承下さりますよう、
お願い申し上げます。

まあ、
こんな偉そうなことを書いた私も、
何でも自分の望み放題の、
権力と金さえあったら、
あるいは、
やりまくる度胸を持って、
この世に生まれ合わせていたら、
何をしていたかは、
わかりません。

希代のヤリチンになっていたかもしれない。

たまたま(?)、
そのように生まれつかなかった、
だけなのかもしれません。

とにかく。

世界平和の祈りをして、
なるべく想いを整えるように心がけるしかない、
と思います。

また、ですが。

まあ、
ちまたには、
かつての日本は、
性におおらかな国だったのだ、
排泄物も古典文学や歴史書や宗教書にも絶大な影響力がある云々、
という個性的な本もいろいろにありますから、(*3)
どのようにお考えになるかは、
読まれた方のご判断次第です。

(追記)
愛欲に耽(ふけ)りまくった報いとは何か、については、佐々木さんをはじめ、仏教の偉い学者さんの人達は、上品なので言葉を濁して、はっきりとは言わないと思います。

おそらく、世間一般的には、後々、病気をうつされたとか、結婚生活が破綻しただとか、その程度にしか考えないのではないでしょうか。

それが自由奔放に愛欲に耽りまくった報いだと。

しかし、私は、世間の不条理な不幸や災難には因縁がかかわっているものと考えた時に、愛欲に耽りまくった報いが生易しいことで済むことは到底あり得ない、と考えざるを得ませんでした。

ひどい話では、ある若いイケメン男性が、女性には内緒で平気で五股も六股もしているなんて話もありました。

おそらく、彼は今後の人生は、さしたる不幸や困難もなく、のうのうと生きていくと思われます。

せいぜい、寿命までの間に、病気などがあった時に、やっと少し反省するかどうかといった程度じゃないですかね。

悲しいことに、肉体人間には、自分が恵まれてきわめて優位な立場にたつと、平気で人を見下す癖をつけてしまう人がいて、それが当たり前になって習慣化してしまうと、よほどの不幸や災難に遭わないと、反省をしないきらいがあります。

お釈迦さんは、当時の愛欲に耽る人達の想いに不安や恐怖を植えつけるのを避けたくて、あえてみなまで言わなくてもわかれよ、という形で、経文がああなっているのかもしれません。

しかし、ああも表現が漠然としているのでは、まず、戒めとしては、あまり効果がないのではないでしょうか。

最近は、貞操観念の乱れもかなりひどいようですから、やはり、報いについて、もう少しわかりやすく書いてみたい、と個人的には考えました。

そんな訳で、今回の内容を書いた次第です。

~~~~~

(*1)このように考えてくると、
(原則として)子供は親に限りなく世話になり、
恩もありますが、
それなりに一人の人間として対して、
尊重しなければならない、
ことがわかります。

子供だからと言って、
何でも親に絶対服従だ云々、
という訳にはいかなくなってくるんですよ。

人生って、大変なんですね。

(*2)肉体人間が抱いた想いは、原則として、輪廻転生を通して、つまり、世を隔てて、実現します。

かなり霊性が開発されてきた場合など、ごく少ない場合に、今生のうちに、良いものも悪いものも、報いがある場合がありますが、少ないということ。

つまり、逆に言うと、今生の原因と結果だ、と思っていたものが、実は過去世の想いが原因となる因縁で、結果はその過去世の因縁が因果としてあらわれたものがかなりある、となります。

(*3)以下の本などがあります。

下川耿史(しもかわ こうし)著
エロティック日本史
幻冬舎新書 413

大塚ひかり
うん古典 うんこで読み解く日本の歴史
新潮社

~~~~~

・執著~しゅうじゃく~仏教語~執着(しゅうちゃく)のこと。深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

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①追記: 2021/09/18 10:28
②追記: 2021/09/18 10:34
③追記: 2021/09/21 22:15

〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。