おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

461_やっぱり5

461_やっぱり5

前回( 460_やっぱり4 )の続きです。

あんな風に考えている唯物論者の人ならば、こうも言うかもしれませんね。

(肉体)人間の本性は荀子(じゅんし)の言うように悪なのだ。

悪そのものなのだ( S さん(=スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )もちょっと似たようなこと言ってましたね)。

いや、さらにもっと進めて後々の努力や精進によってさえも立派になどなれやしないのだ、孟子(もうし)の性善説などくそ食らえ(汚い言葉を使い申し訳ございません)、ぐらいに考えているかもしれません。

では、お釈迦さんが、男女を問わず、誰しもが悟りを開けるとしたのはなぜですか?

お釈迦さんやイエスさんが、娼婦(遊女。売春婦)でも差別なく、きちんと人間として接したのはなぜですか?

今、この世において、肉体人間としてはどのようにあらわれていても、元が光かがやく神性(仏性)だとわかっていたからではないですか?

磨けば光る玉でなければ、磨いても光ることはありません。

修行しても悟りを開くことができなければ、修行をしてもその意味がありません。

ただ、自分を苦しめ(?)、厳しく無理な生活を課す、無駄な努力をすることになってしまうからです。

悟りを開くのは、一朝一夕にはいかず、簡単にはできないけれど、そうやってたくさんの苦労していくこと、それ自体に、肉体人間としての大切な成長の過程があるのではないですか?

そもそも、肉体人間の本質が悪ならば、お釈迦さんの時代に多数の阿羅漢が出るはずがありません。

とは言うものの、悟りまでの道は、凄まじく厳しく、その道のりはるか彼方(かなた)に遠い。

この世に生まれてくるということは、肉体身を持ち、あらゆることに時間がかかり、肉体身として生きていくために与えられた自己保存の本能から、自らとその近しい者だけの利益を最大化させようと我欲中心の生き方になりがちで、たくさんの真善美に悖る想いと行いの業想念を積み重ねてしまう(逆に言うと、過去世の悪い因縁を、時間がかかるが故に果たせる(=解消できる)ありがたい環境でもある)。

そして、私達は、主としてその過去世においてなしてしまった業想念の償いをして、魂を磨き上げてきれいにするためにこの世に来ている。

大体が病争貧苦の業想念の償いとともに、この世に修行に来ていると考えられるのです。

そうして肉体身をまといながら、真の人間の姿、神性(仏性)をあらわせる立派な魂になることができるように、影に日向に(かげにひなたに)応援してお守り下さっているのが、先祖の悟った霊の守護霊さんとその上に立つ守護神さん。

しかし、古(いにしえ)の時代はこうした仕組みを全面には押し出さないで、お釈迦さんのように自力修行で悟るのが主流であった訳です。

日本では、法然さん以降、他力の浄土門も重要な位置を占めるようになってきた。

世界平和の祈りと守護神さんと守護神さんへの感謝行は、この他力の浄土門のいわば現代版のようなあり方だと理解できると思います。

座禅観法でも、自力で悟りを得るのは難し過ぎて、なかなかに悟れない。

お釈迦さんの時代の比丘(びく)や比丘尼(びくに)としての戒律を守れと言われたら、現代人は、おそらく誰も守ることはできないのではありませんか。(*)

現代人は、2500 年前に比べてはるかに便利で、恵まれた生活に慣れているために、あらゆる肉体にまつわる執着を解き放つことはできないでしょう。

唯物論で考えても、人間は悪なのだ、悪だ、悪だ、とばかりしていては、いかなる解決策も、どんな仕組みを作ったところで、完璧なものはできません。

自己(とその身の周り)の保身を最優先にする、肉体人間としての自己保存の本能に縛られている限り、常に安定が破られる不安と恐怖を払拭することはできないからです。

いわば、もろい協定を結んだところで、終局的には、砂上の楼閣、いつ壊されるかもわからない。

いつも、何かしらの不安と恐怖と隣り合わせ。

だって、他人は信用できないんだからね。

身内でさえも権力争いとなれば、どうなるかはわからない。

骨肉の争いという言葉にある通りです。

安心立命はできない。

こういう人は、SM さんの書かれたことを読めばいい( SM さん、まだあのままブログを書かれているのかな。最近は想いを乱すのが嫌なのでままったく見てないからわからないけど)。

唯物論などではどうにもならない、もうすでに詰みきってしまっていることがわかるから。

右も左もないことも・・・。

所詮わが身保身第一の唯物論では、どんなに理屈をこねようが、力学的(?)に限界があり、残念ながら正しさ(?)の主張などでは、どうにもならないことがあるのがよくわかるからです。

唯物論で世の中を直す者がいるとすれば、悪の心をなくした元祖魔人ブウくらいしか適任者がいないほどに、厳しい状況であることがわかります。

しかも、真に性善説をとるならば、霊性や神様に対する理解がなければ、到底、その本質はわからないと思います。

この世は、映し世で、もうあらかじめかなりの決まっていることがあらわれているものだなんて、おそらくほとんどの人は思わないでしょう。

正直、私も思えない。

おそらく、これを思えるのは、悟ったような覚者の人だけでしょう。

この世の中に、真理に反し、善に反し、美に反する様々なもの(この世で時を経て消えてゆく(過去世の因縁の解消されてゆく)姿の中でも悪いもの)が、次から次へとあらわれてくるのに耐えきれなくなってしまい、神様を信じきるまでの境地には、なかなか、至ることができないからです。

しかし、私達肉体人間は、どんなに捨て鉢になろうとも、どんなに悪がろう(悪ぶろう)とも、善なるもの、愛なるものへの希求がある。

おそらく、争いだらけ、災難だらけ、のように闇だらけの中では、苦しくて、苦しくて、生きてはいかれない。

生きていけても、地獄の攻め苦(?)のようになるでしょうね。

だから、私達はかなりの窮地に陥った時、神様!と呼び、叫ぶ。

それはなぜか。

やはり、私達が神様の命を分けられて生きている、肉体人間としての本質が神様の分け命、分霊(わけみたま)だからでしょうね。

つまり、肉体をまとっていても、本質が神様の子供だからだと。

しかし、これはある程度の病争貧苦の辛い経験や、霊性の開発をしないと、なかなかにわからない。

体得できない。

実感できない。

感謝の思いもわいてこない。

口先の理屈でわかるようなケースはおそらく稀です。

そうした特別な因縁の場合以外には、感得できない。

真善美に悖る想いと行いの業想念で、想いの体の幽体が汚れが深くなってしまっているために、感得は難しいでしょうね。

汚れた想いは、浄めてなくさなければ、守護の神霊さんが浄めて下さるもの以外は、ずっと循環し続ける。

過去世(前世、前々世、前々々世・・・の総称)において、人様を身勝手に殴り、今生(今のこの世の人生)で殴られる因縁を持つ人がいるとする。

今生で、正当な理由なく殴られたら、到底、納得することなどできない。

なぜならば、過去世の記憶が消し去られているからです。

過去世において自分が相手になした、殴るという悪い想いと行いの記憶がないからです。

だから、殴られなければならない因縁、その正当な理由がわからないのです。

そうすると、あん畜生、いきなり殴りやがって許せん、すぐに殴り返すんだ、ぶん殴ってやる、となり、この想いと行いが繰り返されて、輪廻転生を通して、相手方も同じように対処すれば、殴り殴られ、殴り殴られ・・・と、輪廻転生を通して悪い因縁因果が繰り返されることになる。

このようには、輪廻転生と過去世の記憶を含めた上で、わかりやすくはっきりとは書いていないけれど、法句経(ダンマパダ)の中で、お釈迦さんが示唆したいくつかのこと(該当箇所のいくつかの部分的な抜粋)を以下にあげます。

勝利者が勝ち取るものは敵意である。
(ニ〇一) (第15章 幸せ より)

怒りには、怒らないことによって勝てる。
(二二三) (第17章 怒り より)

この 2 つは、上記の輪廻転生の因縁因果の巡り方、そして、それに対する対処法を示唆しているのではないですか。

妙好人の人達は、幼子(おさなご)のようにとても素直だから、自分にとって都合の悪いことが起きても、ああ、阿弥陀如来様(仏様。源左さんは親様と言っていた)が、自分の悪い因縁を果たさせて(=解消させて)くれて、仏の子として救いとって下さるためのお計らいなのだな、ありがたい、南無阿弥陀仏(仏様!)、となる。

おそらく、このような至らない私でも、仏の子として立派に磨き上げて下さる、救いとって下さる、ああ、ありがたや、ありがたや、だったんでしょうね。

しかし、現代のほとんどの人は理屈屋さんだし、なかなか、こうした境涯はわからないと考えられます。

やはり、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行のような易行道のような修行を、しかも、これをかなりしていかないと難しい、と。

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(*)比丘と比丘尼の戒律の数は違います。

なお、比丘は、出家して一定の戒を受けた男性の修行僧です。

比丘尼は、同じく出家して一定の戒を受けた女性の修行僧です。

こうした戒律は、具足戒(ぐそくかい)と呼ばれ、それぞれ、以下のようにあり、内容にも差があります。

比丘 250
比丘尼 348

つまり、お釈迦さんは、男性と女性を同じ悟りを開ける肉体人間ではあるけれど、特性(?)の違いがあるとお考えだったのではないですかね。

追伸

SM さんによると、鶴田浩二さんには「傷だらけの人生」という歌があり、ここ数十年の社会状況を示唆したものだといった内容を書いていたような記憶があります。

古い奴だとお思いでしょうが、・・・
生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。

何から何まで 真っ暗闇よ
筋の通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
馬鹿と阿呆(あほう)の からみあい
どこに男の 夢がある・・・

ところで、この「男の夢」って、何でしょうか?

日本の平和のことかな?
それとも、世間の平和のことかな?

作詞家の方(藤田まさとさん)に伺(うかが)わなければわかりませんけれど。

なお、鶴田浩二さんも藤田まさとさんもだいぶ前にお亡くなりになっています。

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追記: 2021/08/12 00:27 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。