第 4 週 人格の完成をめざす
3 不公平な裁きが社会を崩壊させる
罰を与えてはいけない人に対して
怒ったり罰を与えたり、
怒り憎しみをもったりすると、
十種類の不幸に見舞われる。
一、激しい痛み。
二、老衰(体力の減退)。
三、身体の障害。
四、重い病。
五、乱心。
六、国王からの災い。
七、恐ろしい告げ口。
八、親族の滅亡。
九、財産の損失。
十、家が火事で焼ける。
この愚か者たちは死後地獄に落ちる。
(一三七 - 一四〇) (第10章 暴力 より)
適当にやります。
我々の人間社会には必ず刑罰制度がある。社会のルールに反した者を、罰を与えて戒める制度だ。刑罰には、罰金をはじめいくつかの形がある。こうした刑罰は、人間社会に連綿と続いてきているものだ。
刑罰制度は、国家にも、組織にも、家庭にもある。刑罰制度が存在するのは、生命が持っている真理で、生命があるところには必然であると私達はとらえなければならない(?)。
それゆえに、刑罰制度をなくすことは難しいのだ。
実は、動物社会を観察しても、刑罰制度的なものはあるのだ。それなりのルールにそって、他の個体を戒めたり、戒められたりする。ルールを破ると仲間から制裁される。人間に限らず、生命同士で生活しているとこうした現象が成り立ってしまうのだ(また、肉体人間と動物を同一視している・・・)。
刑罰が存在しない社会が成立するのは、悟りを開いた完全なる人々の世界だけだ。
仏教の世界でも、サンガ(僧団)を運営するための刑罰制度はあるのだ。サンガはまだ修行中の未完成な人間の集まりなので、戒めが必要だからだ。
結局、一般社会では刑罰制度をなくすことはできないのである。
では、世界が平和にならないのはなぜか。その大きな要因は刑罰制度が正しく機能していないことがある。国、民族、政党、家庭内のどこにおいても、不公平な刑罰が行われている。そこに人々の怒りや憎しみが絡むと、他を罰する時にはやりたい放題にやっつけるようになってしまうのだ。
刑罰制度は自然発生的にあらわれてくる厄介な不純物だ。それなのに、さらに間違えた使い方をしているから、大変に危険なのである。
それでは、刑罰制度はどのように運用されるべきか。例えば、人を罰する場合、その量刑は相当だと誰しもが納得できなければ、不公平となる。その本人が自ら罪を認め、罰を当然に受け入れると納得済みなら問題はない。
しかし、そんな刑罰制度は世の中にはない。実際には権力者が法をねじ曲げ恣意的な刑罰を下している。そうなると、罰を受けるべき人間も、反省して自分を戒めるよりも、腹を立てて社会を攻撃しようとするようになるのだ。
刑罰制度の不公平さのために、社会の不幸をひろげることになるのだ。社会秩序を保つために刑罰制度があるのに、歪(ゆが)んだ刑罰制度のためにかえって社会秩序が崩れるという悪循環が起きてしまうのである。
これを地球規模で考えると、世界は平和ではなくなっている(?)。
なぜに、刑罰制度は間違った方向に傾いてしまったのか。それは、人々が自分勝手な判断を下しているからだ。皆のためではなく、自らの利益だけを考えて相手を罰しているのだ。これでは正しい刑罰にならない。
刑罰制度は、純粋な心(?)で、自らの利益よりも、皆の利益を考えて行使しなければならないのだ。
ブッダ(お釈迦さんのこと)は説く。「刑罰は、人間(生命)のある社会に必ず現れてくる不純物のようなものだ。慎重に扱わなければいけない。公平さを保たなければ危険である」と。
生命のコミュニティでは互いの利益を守るために、自然に刑罰制度が生まれてくる。だからこそ、慎重に扱わなければならないのだ。
とは言っても、簡単なことだ。罰を受ける側がきちんと納得しているかどうかに気をつければいいのである。
罰を受ける側を、納得させることができないないなら、刑罰制度の使い方をどこか間違えているのである。
裁判に訴えられた側が、明らかに有罪であると全員一致で決まっている場合でも、相手が罪を認めないことがある。その場合は粘り強く説得すべきである。
いくら法にのっとって説得しても、間違いを認めない人は、社会の利益のために行動していない人であるから、この場合は一方的に罰を与えてもよいであろう。
それ以外の場合は、一方的に罰することはできない。これは仏教のサンガ(僧団)の決まり(律)だ。
サンガの決まりは、コミュニティをつくって生きる人類の理想的なあり方を教えているのである。
一般社会でも、裁判で被告人が必死で無罪を訴えている場合は、真剣に耳を傾けなければならない。
いろいろな証拠がそろっていても、無実の罪である可能性もある。
ダンマパダ(法句経)の 137 偈から 140 偈では、罰を与えてはいけない人に罰を与えたらどうなるかを教えている。
社会でも家庭でも、一人が不公平なことをしてしまうと、互いの信頼関係が崩れてケンカとなり、不幸に陥ってしまう。さらには殺し合いに発展する可能性もある。
国内で派閥にわかれて争って、人殺しも次から次へと起こる。そして、対立が国同士に広がると戦争になる。
平和の崩壊は、刑罰の不公平から起こるのだ。刑罰に対するアプローチは、公平という微妙なポイントに気をつけなければならない。
不公平な刑罰制度のために、人間はこの世で散々な目に遭って、死後は地獄にまで落ちてしまうのだと。
どれも世界を観察すれば容易に見いだせる現象だ(?)。
生命の法則は誰も無視することができない。生命は不完全で間違ったこともするので、複数の生命があるところには自然に刑罰制度が成り立つのである。
生命が完全なら、罪も罰も成り立たない。だから、「罰を与えてはいけない人」とは阿羅漢(最高の悟りを開いた聖者)のことである、と伝統的な注釈書では説明している。
しかし、たとえ凡夫(ぼんぷ。仏教の教えを理解していない人)であっても、罪なき人に間違った罰を与えれば、生命の法則に反してしまうのだ。法則を破る極悪行為なので、たちまち不幸に見舞われることになる。これは決して脅しではないのだ。
この偈(げ。詩文。この経文のこと)から、「正しい刑罰制度とは何か」という人間が知るべき重大な真理を発見できると思う。
政府や警察や裁判官だけが罰を与えている訳ではない。
刑罰は一人一人の生命につきまとっている問題だ。よって、一人一人の生命がいかに公平に生きられるか、自分が誰かを叱る時でも、いかに公平な態度を貫けるか、ということで考えなければならないのである。
公平であること、罰を受ける側が間違いを認めること。この二点に気をつけるならば、私達は平和で安定した社会を築くことができる、とブッダは教えているのである。
とのこと。
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・連綿~れんめん~長く続いて絶えないさま。
(用例)窮状を連綿と訴える。
・恣意~しい~自分勝手な考え。ふと思いついた気ままな考え。
(用例)恣意によって方針を決める。
・恣意的~その時々に思いついたままであるさま。
(用例)恣意的に判断する。