おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

420_法悟28-24-2

第 4 週 人格の完成をめざす

3 不公平な裁きが社会を崩壊させる

罰を与えてはいけない人に対して
怒ったり罰を与えたり、
怒り憎しみをもったりすると、
十種類の不幸に見舞われる。
一、激しい痛み。
二、老衰(体力の減退)。
三、身体の障害。
四、重い病。
五、乱心。
六、国王からの災い。
七、恐ろしい告げ口。
八、親族の滅亡。
九、財産の損失。
十、家が火事で焼ける。
この愚か者たちは死後地獄に落ちる。

(一三七 - 一四〇) (第10章 暴力 より)

勝手にやります。

今回は、いつもにも増して、かなり荒れて脱線するかもしれませんし、読むに耐えないかもしれませんが、お許し願います。

3つに分けます。

1. 肉体人間の本質

S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )は、肉体人間をも含めた生命を宿す生物のすべてが、利己的でどうしようもなく、しかも悪を好むかのように否定的に書いてきた(少なくとも私が読んだ範囲では)。

だから、それが群れをなす、社会を構成するためには、刑罰制度のような信賞必罰的な制度が自然に設けざるを得ないかのように書いていた(のように私には読めた)。

しかし、肉体人間に関してだけは、悟りを開いた解脱した人々で構成された社会に限り、刑罰制度はなくても済むとしていた。

ここで、肉体人間の本質をどうとらえているのか、ということが問題になる。

解脱した人々で構成された社会なら、刑罰制度がいらないということは、肉体人間の本質が神様の分け命(仏性)だからこそ、できることのはずです。

お釈迦さんは、誰もが悟りを開けるとしていたのだから。

ということは、ここでは、肉体人間の本質は、あくまでも、神様の分け命(仏性)であると認めていると同義だ。

だから、肉体人間の本質を悪を好む、いやむしろ、悪そのものであるかのように書いていたのは、一体、どう解釈すればいいんですかね。

S さんの肉体人間観は、荀子性悪説とお釈迦さんの教えの入り交じった折衷案なのでしょうか。

でも、肉体人間に限ってだけは、神様の分け命を本質とするものとして、動物その他の生命と十把一絡げにするのは、違うような気がするんですけど。

動物その他とは、あくまでも、一線を画す存在として。

元々は神様として一つであったものが、個々の肉体に分かれて入り、自他一体感が薄れてしまったということ、肉体をまとうことで与えられた自己保存の本能により自分だけを優先するエゴが習慣化されてしまったことで、肉体人間は、罪悪深重の凡夫と呼ばれるような、業想念を常態化するような形になってしまったけれども、あくまでも、その本質は神様の分け命であって、元から放っておけば、悪がる、悪いことをしたがる存在ではなかったはずです。

肉体人間が、はじめから悪いことが好きで、悪いことばかりしたがるような存在ならば、修行をしてどんなに人格を向上させたところで、さらには、悟りを開いたところで、何らかのきっかけがあれば、すぐに元の悪いことが好きで、悪いことばかりしたがる存在に逆戻りしてしまうのではありませんか。

つまり、肉体人間としての寿命が尽きるまで、戒律その他の強烈なタガをはめておかないと、修行などにより向上させた人格も、開いた悟りも、泡沫のように消えてしまうのではありませんか。

なぜならば、肉体人間の本質が神様の分け命(仏性)ではなく、悪いことが好きで、悪いことをしたがる存在なのだから。

このように考えると、肉体人間が悟りを開いても、あくまでも暫定的、一時的なものであり、輪廻転生も卒業できないのではありませんか。

私には、肉体人間の本質が神様の分け命(仏性)であるからこそ、悟りを開くことができ、輪廻転生を卒業して解脱することができると思えるんですけど。

前に、みがけば光る玉だからこそ、修行する価値があると書いたように。

S さんの言う、肉体人間は悪いことが好きで、悪いことばかりしたがる、を読むたびに、私はこの点がわからない。

2. 因縁因果について

信賞必罰。

賞すべき功労のある者には必ず賞を与え、罪過のある者には、必ず罰すること。

これを因縁因果になぞらえてみると。

さしずめ、良い因縁因果は賞に相当し、悪い因縁因果は罰に相当すると考えていいでしょう。

これまで何回か、(広義の)神様の世界では、真善美に悖るものの存在は許されないだろうと書いてきた。

だから、真善美に悖るもの中でも、肉体人間の想いと行いの業想念は、生じた場合には、必ず清算して消えてゆくものであることを書いてきた。

これも、前に書いたのだが、肉体人間は神様の分け命を本質とする、神様の分かれ分かれの存在であるが、その全体を巨視的(マクロ的)に見ると、個々の肉体人間同士で行われた想いと行いは、すべて自分(神様の分かれの存在の集まった全体)に返ってきている、ととらえることができる。

だから、因縁因果としての肉体人間の想いと行いは、神様の分かれ分かれの存在の集まった全体の中で、循環していることになる。

想いや行いが返ってくる法則というのは、これを指していると考えられる。

ただし、この肉体人間の想いと行いの循環の大半は、輪廻転生という、世を隔(へだ)てた時間差を持ち、しかも関係する肉体人間の過去世の記憶はほとんどの場合に消されてしまうという形をとって(一般的な仏教の話では、この点がいつも曖昧ではっきりしていないものが多いと感じる。極端な場合には、過去世の話をまったく抜きにして、因縁因果を説いているものがいくつもあったから)。

このように考えてくると、今、現在、世の中がどんなに建前だらけで、不平等・不均衡でおかしくて、納得できないように見えたとしても、神様の世界にあってはならない業想念が、様々な形をとって消えてゆく形だと理解することも可能となる(本当に納得し難いんですけどね)。

あくまでも、最終的に業想念が消し去られて、神様の世界があらわれるまでの、途中の段階だと。

ただ、この長い長いであろう神様の世界があらわれるまで期間に比べて、肉体人間の寿命はあまりにも短く、せいぜい、長くても 100 年くらい。

それも、成長したら死ぬまで若いままでいられればいいけれど、生老病死の老病死はおそらく避けられない。

そう考えてくると、中間過程の私達は、あくまでも、後世の人達が少しでも良くなるように、過去世から溜め込んできた業想念をなるべく多く浄めて、この世でのあらわれ(具現化)を減らすとともに、この世と来世以降もそのあらわれを減らすように努めるしかない、と考えられる。

希望としては、今すぐにでも、不平等・不均衡が是正されて、この世の悪いことも一切なくなり、早く神様の世界があらわれてほしいのだけれど・・・。

正直なところ、何が本当なのか、いまだに理解に迷い、よくわからない状態です。

3. 世界の認識について

この経文に、愚か者が死後に地獄に落ちると書いてあることからして、これは明らかにこの世だけでなく、死後の世界であるあの世を認めていますね。

そう解釈せざるを得ません。

では、お釈迦さんが、無記としたこととの整合性はどうとらえたらよいのでしょうか。

ここには(今までにも)まったく解説がなかったので、これもはっきりしません。

中村さんも、S さんも、今まで読んだ範囲では、こうした点が、明らかにされていないような感じがします(少ししか読んでいないので、他の著書には書いてあるのかもしれないですけど)。

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・折衷~せっちゅう~いろいろ異なるものや意見などから、それぞれよいところを取り、適当に合わせて一つにすること。
(用例)和洋折衷。折衷案。

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追記: 2021/06/30 23:30 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。
すみません。