おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

450_満ちている

私達は肉体人間としてこの世に生きています。

しかし、自分で生きようとして生きているのではありません。

なぜならば、心臓をはじめとした、肉体人間の身体を構成する各器官は、自分の顕在意識で働かせている、動かしているものではないから。

心臓よ動けと顕在意識で間断なく命令を下しながら、心臓が規則正しく鼓動を刻んでいるのではないし、肺臓よ呼吸せよと顕在意識で間断なく命令を下しながら肺臓周辺を含めた組織が収縮して呼吸をしている訳ではないからです。

顕在意識で、故意に意図せずとも、心臓や肺臓をはじめとした身体の各器官は休みなく働き続けてくれている。

これが端的にわかるのが、睡眠時です。

覚醒時(起きている時)のみならず、睡眠時(寝ている時)は意識がないのに、身体の各器官は休みなく働き続けてくれている。

このように考えてくると、これは顕在意識ではない、潜在意識の領域である無意識のかかわる領域のなせる業(わざ)だと考えられるのです。

この潜在意識である無意識をつかさどり、なおかつ、身体の各器官をはたらかせているもの。

これを考えてくると、どうしても神様のお力によって生きている、というより、生かされているとしか、考えられなくなるんです。

つまり、神様から肉体人間の各々に分け与えられた神様の分け命(分霊。わけみたま)が、身体の各器官に働きかけ、肉体人間の生命活動を維持させているのだ、と。

すなわち、私達、肉体人間は、自分の意志で身体の各器官を休みなく働かせて生命活動を維持して生きているのではなくて、神様から分け与えられた命によって生かされているのだ、と。

ペットなどが生きている。弱りながらもつい先ほどまで、呼吸をはじめとした生命活動をしていたペットが、亡くなるとまったく動かなくなり、しかも、次第に硬直して干からびていく。

やはり、これはペットの肉体を動かしていた、生かしていた、有機的な生命体として機能させていた生命、命が抜けてしまったか、無くなった、そのために、肉体への働きかけが無くなってしまったとしか考えようがありません。

肉体人間や、こうしたペットなどの動物や、植物をはじめとして、ありとあらゆる生から死までたどるこの世の生物は、神様から何らかの命を与えられているから、このようにその生涯をまっとうする。

つまり、あらゆる生物は、神様からそれぞれに分け与えられた命によって、この世で生かされていると考えられるのです。

中でも、肉体人間だけは、神様の分け命を直接頂いて生きているから、創造をはじめとする各種の能力を持ち、他の生命体とは一線を画している訳です。

このように、無意識に肉体人間としての生命活動がつつがなく続いて、私達は生きている。

この神様の分霊の身体への働きかけがなくなってしまうと、肉体人間は、1 個の有機体としての生命活動は維持できなくなり、肉体人間としての死を迎える、ということになります。

身体の各器官や要素は、灰や骨などや目には見えない人体を構成する要素になって、また、後々に新たな肉体人間の魄(ぱく)要素として、地球に還元されることになります。

要は、無意識に肉体人間としての生命活動がつつがなく続いて、私達は生きている訳です。

こうして見てくると、私達肉体人間は、意識的にどうこうとメリハリをつけるよりも、無意識に任せて生きている範囲がかなりあると思われます。

例えば、自転車の運転(自転車に乗ること)。一回、乗り方を習得してしまえば、原則として誰もが、自転車に乗ることができます。

ただ、これも常時、顕在意識を働かせて乗っているというよりも、ある程度、無意識に任せながら、スムーズに運転が続けられているように思えます。

それも、視覚、聴覚、触覚をはじめとする五感と、直感までをもフルに動員して、しかも、神秘的(神業的?)に連係させながら自転車に乗っている。

つまり、ある程度の指令の大枠が定まると、あとはその指令に従って、無意識をはじめとする潜在意識がかなりの割合を占めながら、言い換えると、かなりの割合で無意識が司令塔になって、身体の各組織をフル動員しながら自転車に乗ることができている。

私達肉体人間が、こうして生きているのもそうだけど、何かしらの活動をしている時も、無意識がかなりの働きをしてくれていることによってこそ、様々な活動ができているのではないか。

自然にふるまっているようでいて、無意識の制御のさまは、素晴らしい。

よくよく考えると、私達は無意識によって、信じられないほどに、高度でバランスの取れた行動をとっている。

私達肉体人間は、ある程度、無意識に任せることによって、自動的(オートマチック)に、各種の活動ができているのではないか。

そんなことを考えることがままあります。

細部を取りまとめて、働かせている司令塔、いわば、オーケストラの指揮者に匹敵するものが私達にはそなわっているのではないか、と。

普段の生活に埋もれていると、忘れがちにはなるけれど、世の中にはいろいろと神秘的なことが満ちているものなんだなあ、と思わされます。

追伸

この世に肉体人間として生まれてくるのも、生きていくのも、死んでいくのも、みんな自分の意志のままにはならない(自殺をする以外は)。

それでも、私達のほとんどすべては、五感にもとづく欲望と自分を中心とした唯物論での利害得失計算による功利を最大にしようともがいて(?)しまう。

人様のため、それも人様のためにもなり、自分のためにもなる、均整の取れた調和をはかるのは、なかなかに難しい。

なので、人間=肉体人間であるとの、肉体人間観が抜きがたくある以上は、ますは自分をはじめとする近しいところからはじめて、次第に遠くに及ぼしていくやり方が、一番無理がない。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行によって、段階的な霊性の開発とともに、漸次、想いと行いを改めていくのが、適切なものと考えられます。

いつもの結論ですけれど。

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・顕在~けんざい~はっきりと具体的な形にあらわれて存在すること。
(用例)問題が顕在化する。

個人的な感覚ですけど、顕在意識は、普通の意識、あらわれの心に相当するものと言えるでしょうね。

・間断~かんだん~切れ目。絶え間。
(用例)雨が間断なく降り続く。

・覚醒~かくせい~①目が覚めること。目を覚ますこと。
②迷いからさめたり、過ちにきづいたりすること。
ここでは、①の意。

・恙~つつが~病気などの災難。わずらい。

・恙無い~つつがない~病気がない。事故や異常がなく、無事である。
(用例)つつがなく暮らす。