おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

472_仏言葉ー006 ー 三つの基本

第 1 章 世間のルールになじめない

6.三つの鉄則

真実を語ること、怒らないこと
請(こ)われたならば、少しなりとも施すこと
これら三つを実践すれば
あなたは神々の許(もと)に至る

(二二四) (第17章 怒り より)

佐々木さんは、お釈迦さんが、これらを常に行うことが正しい生き方だとしていたとする。

現代の私達にも、心がけるべき正しい生き方だろうとも。

ここで言われている、真実を語るというのは、(何が真実かという問題はさておき)要するに、ウソをつくな、ということでしょうね。

これについてもすでに書いているので、以下、それらを引用する。

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(二二四)について

394_法悟28-14-1(Sさん関連。一部改変あり)

第 2 週 人生苦と向き合う

7 人生の達人になるための条件

真理を語ること。
怒らないこと。
頼まれたら少しでも助けてあげること。
この三つを実践する人は、
神々の世界に行くだろう。

(二二四) (第17章 怒り より)

私( S さんのこと)はある時、子供からこんな質問をされた。

「いい人間になりなさい、とおばあちゃんに言われるんですけど、どうすればいいんですか、いい人間って何ですか」

私( S さんのこと)は戸惑ったが、この偈(げ。詩文。この経文のこと)に答を見い出すことができた。

まずは、真理を語ることだ。ウソをつかず、事実を曲げずに語ること。そうした方が生きるのは楽なはずだ。自分勝手に作り話をせず、事実をありのままにストレートに語ることだ。

その方が人生は楽なのだ。しかも頭が悪くならない(?)。様々な事実をきちんと覚えておき、しっかりとしたデータにもとづき話をすると、頭がよくなるのである(?)。

逆に、自分で妄想して様々な創作をしようとすれば、頭は混乱する(?)。

ウソをつかず、事実と真理をありのままに話すことで、頭がよくなり(?)、いい人間になるのである(??)。

二つ目は、怒らないことだ。怒りを自分で管理できるようになれば、人生の達人と言えるだろう。とにかく、怒りは禁物である。

三つ目は、頼まれごとは、ほんの些細(ささい)なことでも引き受けるということだ。不可能なことは、できなくても仕方がないが、努力はすべきである。そうしないと、いい人間になれない(?)。これを実践すれば、生きるのもとても楽になるのだ(?)。

事実を語り、怒らないようにして、人からの頼まれごとを少しでもやってやる。この三つが、いい人間になるための条件なのである(?)。

ブッダ(お釈迦さんのこと)は「そういう人は、神々と一緒になるのだよ」としている。立派な人間になりますよ、という意味だ。このように説明すれば、子供にでも理解できるのだ(?)。

これら三つの条件の中でも、特に難しいのは、怒りのコントロールである。

ブッダは、ダンマパダ(法句経)の中で、次のように言っている。

暴走する車をコントロールするように、
わき上がる怒りを管理する人。
彼のことを私は御者(ぎょしゃ)(人生の達人)と呼ぶ。
他の人はただぼんやりと手綱(たづな)をもっているだけ。

(二二二) (第17章 怒り より)

怒りは強力な猛毒をもつウィルスのようなものだ。感染力が強く、心に入り込むとアッという間に体中に広がる(?)。(体の?)細胞の一個一個にまで、この怒りの強烈なエネルギーが行き渡るのだ(??)。怒りはとてつもない猛毒なのである。

問題なのは、心が怒りに感染すると、自分で管理ができなくなることだ。話してはいけないことを話し、やってはいけないことをやり、大失敗をして、頭が混乱してしまうのだ。

だから、私達は決して怒りを好んではいけない。怒りを生みそうな考え方もやめるべきだ。

テレビも怒りが出そうだと感じたら、見ない方がいいだろう。その方が、得なのだ。本を読んでいても、ジワジワと怒りがわいてくるようなら、読まない方がいい。

嫌になるなる気持ちも怒りの一つだ。何だか嫌だなあ、という気がしたら、すでに怒りがはじまっているのである。だから、何としても、怒りに感染しないように、気をつけるべきなのだ。

怒りというものは、突然こみ上げてくる(?)。これは一種の発作状態だ。だから、怒った瞬間に、これをどうやって排除するのかに、気をつける方がいいのだ。

「俺が頭にきたのはアイツのせいだ」などと怒りの理由を探してはならない。「俺が何回言ってもアイツは聞いてくれない。だから、怒っても当たり前だ」などと怒りを正当化するのが、大間違いなのだ。怒ることは、決して正しくはない。当たり前でもない。怒ってしまったら、怒った本人が猛毒を飲んでいるだけなのだから。

ブッダは、「たとえ自分がノコギリで切られても怒ってはいけません」と説いている(?)。たとえ、残忍な犯罪者に自分が生きたままノコギリで切られても、「怒ってはいけない」「そんな時でも相手を非難するな」と言うのである(??)。

「そんなにひどいことをされても、怒りや憎しみを感じないなんて不自然だ。おかしいではないか」と思う人もいるだろう。しかし、「それさえもダメだ」と断言するのが仏教なのだ。そのぐらい、怒りは危ない猛毒だということだ。

怒りは人間を確実に不幸にする。今は不景気だから「収入も足りないし、子供の学費も上がる一方だ。食品も値上がりし、消費税もさらに上げるなんて、踏んだり蹴ったりじゃないか」と、人間は当然のように文句を言ってしまう。しかし、そこには怒りが隠れている。幸せになりたいのなら、その怒りを管理しなければならないのだ。

人間は怒りを管理できれば、必ず幸せになれる。例えば、給料が減って生活が苦しくなっても「やれやれ、ひどい状態になったものだ。じゃあ、どうしようか」と明るく対応してはどうか。

文句を言ったり、愚痴をこぼすのではなく、明るく対応をするのだ。「少ない収入の中で、どうやくりしようか」を考えるのだ。そうすれば、怒りの毒を飲むことはない。怒りを管理していることになるのである。

人間は毎日、24 時間、悪条件に遭遇している(?)。気分のいいものに出合うのは、ごくまれなことなのだ。

電車に乗りたくても、満員で乗れないとか、買い物にでかけても欲しい特売品が売り切れていたとか、悪条件にだけはいつでも遭(あ)う。

夏は暑いし(?)、冬は寒いし(??)、ごはんを食べようとしたとたんに電話が鳴る(???)。これらにいちいち怒っていたら、人生はやりきれないのだ。

「怒りを管理する人は、人生の達人です」とブッダは言う。ブッダの教えによれば、暴走する車にしっかりとブレーキをかけて、ストップさせられる人は、プロ並みの運転手と言える。

私達の人生は、怒りで暴走しっぱなしだ(?)。どこへ走りゆくのか、どんな事故を起こすか、もう何人ひき殺すのかさえわからない。一人一人の人生が怒りで暴走中なのである。

そこで、ブッダは、「怒りを管理してみなさい。そうすれば、最高に腕のいい運転手なれますよ」と言っているのだ。だから、私達は、自分なりに色々な工夫をして、なるべく怒らないように自分を管理すべきである。

先述のように、私達は四六時中、悪条件に遭遇している。

しかし、人生で自分の体をノコギリで切られるなどありえないし、昔のように理不尽に捕まり野蛮な拷問を受けることもないだろう。

私達が日常で遭遇する苦しみなど、ちっぽけなものだ。誰かに文句を言われたとか、電車の中で誰かに足を踏まれたとか、病院に行ったら一時間半も待たされたとか、夫のいびきで眠れなかったとか、子供が夜泣きをするとか、お姑さんが文句を言っているとか、その程度のことなのだ。

そんな時、ノコギリのたとえ話を思い出してみよう。「たとえ自分がノコギリで切られても怒らないぞ!」というのを、自分のモットーにしておけば、「何だ、日常生活っていうのは、単純なことばかりじゃないか」と気楽に生きられるのである。

とのこと。

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(二二四)について

395_法悟28-14-2(Sさん関連。一部加筆・改変あり)

第 2 週 人生苦と向き合う

7 人生の達人になるための条件

真理を語ること。
怒らないこと。
頼まれたら少しでも助けてあげること。
この三つを実践する人は、
神々の世界に行くだろう。

(二二四) (第17章 怒り より)

今回は、いつもにも増して、かなりウダウダとなるが、仕方がない。

お許し頂きたい。

(1) 真理を語ることについて

真理とは何かが、ここでは特定されていないが、とりあえずは、いかなる場合にも通用する妥当な知識や認識、とする。

例えば、難病の男性患者がいたとする。担当の医者が、たとえ真実だからと、病状や将来の見通しをありのままに、(冷酷に)告げたらどうなるか。

医者自身が、その病気に罹患(らかん)していない場合が圧倒的に大多数だから、ありのままに告げれば、患者がどれだけのショックを受けて、悲嘆にくれ、苦しむかはわからないことがほとんどだ。

つまり、わが身に置き換えることができないから、なかなか、相手の立場に立つことができないのである。

医者も親の期待や言いつけ、そして、人助けという高貴な職業で安定した高給が望めるであろうという打算も多少はあるかもしれないが、初心には、やはり、人のために尽くしたいという気持ちを必ずや心の片隅にもっているとは思うのだ。

それでも、捌(さば)く患者の多さ、研究の多忙さ、人間関係などで、いろいろと煩わされ、患者の親身になることはかなり難しいだろうとは思う。

だから、アッサリと言ってしまう。

あるいは、幼い頃から勉学に勤しみ、ろくに遊ぶ暇もなく、独特のプライドを鎧のようにまとっているように、見受けられる人もいる。

こうした人の場合、かなりトゲのある言い方をする場合があるように思えるのだ。

まあ、散々、勉学に追われ、しかも、超多忙なのに人格者にまでなれ、というのは、酷な注文かもしれない。

話がそれた。

こうした場合、医者が患者に、ありのままのこと、ウソをつかずに真実を告げることは、事実を一切曲げていなければ、真実と言える。

この意味では、ある意味で、真理を実践したと言えるだろう。

しかし、果たして、本当にそれだけでいいのだろうか?

お前はこうだ、と相手に有り体に告げ、ドカーンとやってペチャンコにするのを、あらゆる患者に適用していいのか?

この世の人間の圧倒的大多数の人は、人間=肉体人間観に支配されている。

だから、肉体と神様の分け命たる本体を分離して考えることができない人がほとんどなのだ。

言い換えれば、私達肉体人間の本質が神様の分け命、分霊、つまり、神様だと感得している人はほぼいない、ということ。

何があろうとも、何が起ころうとも、ああ、すべては過去世の因縁のこの世での時を経て消えてゆく姿なんだな、神様ありがとうございます、とできる人はまずはいないのだ。

だから、やはり患者には、人間としての愛を、同胞としての愛をもって望むべきだと思うのだ。

患者の性質やこらえ性などを多少加味して、事実を曲げない程度(多少は曲げても)に、言い方を工夫することはできるはずである。

こうした事例のように、苦しんでいる相手の身を慮(おもんぱか)り、ある程度、事実から外れたことをいうのは、まだまだ、人間=肉体人間とする見方が支配的で、唯物論全盛の現代では、愛のある行為だと思うのだ。

要は、極端に言えば、ウソも方便だ、ということだが、まだまだ、霊性の開発が足りず、肉体人間観が根深い場合には、相手をなるべく傷つけないように慮ることで、愛を施す。

神様は愛なのだから、愛はすべてを生かすのだから、これは、神様のみ心に沿った行為だと思うのだ。

よって。

個人的には、四角四面に事実をありのままに告げない、事実を曲げる場合もアリだ、と考えます。

きわめて不利な立場の相手をも生かす、いわば、緊急避難的なウソは、アリだと考えます。

(2) 怒りについて

S さんのような偉い人にとっても、怒りは難題なのか、かなり、あれやこれやと回っているように見える。

ノコギリの話は、S さんの引用説明がまったくないのでわかりにくいが、中部経典第二一の「のこぎりの譬(たと)え」という教えのことだと思う。

これは確かに唯物論的に見れば、ブッ飛んだ話である。ほとんど理解は不可能だ。

しかも、お釈迦さんは、この危害を加えられるに当たり、感情を乱して、声を上げるなど取り乱したら、私の弟子ではないかのような強烈な話なのだ。

法華経にもあるが、わが身が焼かれようとものように、唯物論で人間=肉体人間とした場合には、到底理解できない話がある。

こうした考え方は、人間=神様の分け命である、肉体ではない、としないと理解できないと考える。

人間=神体、霊なる人間であり、肉体はその働き場所であり、器なのだ、と感得していないと理解は不可能だと思う。

お釈迦さんが、いかなる恐怖を味わおうとも、苦痛を味わおうとも、想いを乱すな、としているのは、こうした発想で理解しないとわからないと思う。

本体が神様の分け命だとしても、肉体をまとい、肉体人間として抱く想いは、神様のみ心に沿ったもの、つまり、真善美に悖らないものであることが本来のあるべき形だ。

だから、危害を加えられることにより生じる、不安、恐怖、怒りは、すべて、真善美に悖るものであり、本来はあってはならないものなのだ。

だから、こうした想いや行いは、神様の分け命を本体とする者、仏教的に言えば、仏性には、ふさわしくない、そもそもないものとなるのである。

お釈迦さんの言っていたとされる過激とも取れる言い回しは、こうした内容を踏まえてのものと思われる。

なお、因縁因果の面からも、考えられることがあるのだが、今回は勝手ながら割愛とする。

お許し頂きたい。

(3) 神々の世界

また、霊性をきちんと肯定しないのに、軽々と神様を出してくる。

こうして、ごくごく普通に、当たり前のように神様を出してくるならば、神様がどんな存在か、きっちりさせておくべきだ、と個人的には考える。

創造主としての神様は認めていないだとかしている話がある割には、梵天がでてきたり、帝釈天が出てきたりする。

神様をきちんと肯定しないから、縁起のようなわかりにくいモヤモヤした理屈で言い繕っているように思えて仕方がない。

空は、神様だ。

神様からすべてが生まれてくる。

肉体人間は、神様の働き場所であり器である。

自然も植物も動物も肉体人間も、何もかもが、すべて神様のあらわしたものに他ならない。

その理解の仕方の方が、ずっとスッキリしてわかりやすいと個人的には考える。