おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

475_仏言葉ー009 ー 愛着と苦悩

第 1 章 世間のルールになじめない

9.欲は苦しみの元

激しい愛着に駆り立てられた人は
罠にかかった兎(うさぎ)のようにもがく。
束縛と執着に囚われた人は
永い間繰り返し苦悩し続ける。

(三四二) (第24章 激しい愛着 より)

この経文には、悟りを得られていない肉体人間が、いかに欲望に振り回され、執着を抱くものであるかが、いやというほど厳しく書かれている。

佐々木さんによると、この兎というのは、欲に目が眩(くら)んでいろんなものを追いかけ回す弱い者のたとえなのだそうだ。

この経文については、以前に中村さんのところで、触れた部分があるので、これを含んだものを以下に引用する。

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231_原仏13ー20(中村さん関連。改変あり)

230_原仏13ー19 の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

ー 主体性の確立 ー

馴らされた螺馬(らば)は良い。
インダス河のほとりの血統よき馬も良い。
クンジャラという大きな象も良い。
しかし自己(おのれ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。

(三二二) (第23章 象にちなんで より)

(A)世の人はとかく迷って、自分の本領とは違ったようなことをあれこれする訳です。それを整えよ、ちょうどよい馬を調教するように。

ことにインダス河の流域 ー 今はパキスタンになっていますが、あのあたりは名馬の産地として知られていましたが、そのよい馬を本当の馬使い、調教師がきちんと整える、そのように自分を整えよという訳です。

それは主体性を確立するということです。

(B)なし。

次です。

ほしいままにふるまう人に渇きはあたかも蔓草のようにはびこる。
彼は、森のなかで果実を求める猿のように転々とさまよう。

(三三四) (第24章 激しい愛着 より)

渇望に悩まされた人々は、追い詰められた兎(うさぎ)のように逃げまわる。
束縛と執著にしばられ、久しく繰り返し苦悩を受ける。

(三四二) (第24章 激しい愛着 より)


(A)(一部改変省略訂正あり。以下同様)人々は欲望に悩まされていることについての、非常に巧みな譬喩(ひゆ。比喩のこと)がここに出ています。

これはインドの風土に即して考えてみると、まことに適切な比喩だと思います。森の中では猿がしょっちゅう跳(と)び交(か)っています。森の中ばかりではありません。希には街の中まで猿が勝手に出てきます。

このしょっちゅう跳び交っているあの姿、実は我々が迷って右往左往している姿ではないか。自分のことは中々気がつきませんが、第三者が高い所から我々人間の動きを冷静に見ると、猿があっちへ行ったり、こっちへ行ったりする。あるいは兎が追い詰められて、あっちへ行ってもだめ、こっちへ行ってもだめ。本当に何か自分のことを言われているような、そういう気がするのです。

これらの詩では、人間にある根元的な欲望、これを「渇き」という言葉で表現した訳です。

ここでは「渇望」と訳しましたが、時には仏典では「渇愛」という字で表現されることもあります。ちょうど渇きのようなものです。

あの広々とした広野の中で水がほとんど得られない。そこで人間が渇きに悩まされている。水を見れば、否でも応でもそれが飲みたくなる。その気持ちです。

どうにもしようがない、抑えることのできないその衝動的な欲望というか、動きというか、それが奥に潜んでいる訳です。それと直に対決する訳なのです。

(B)なし。

次です。

みずから自分を励ませ、みずから自分を反省せよ。
修行僧よ、自己を護(まも)り、正しい念(おも)いをもてば、汝は安楽に住するであろう。

(三七九) (第25章 出家修行者 より)

(A)自分で自分を励まし、努力しなければ本当の自分は出てこないでしょう。つまりぼやっとしていますと、人間はあっちへ行こうか、こっちへ行こうか、色々迷う訳です。

そこで自分の正しい生き方はかくあるべきと、自らを励まし、その大きな目的に向かって進む訳です。だからここにも、いわゆる主体性の確立が明示されている訳です。

ことに「自己を護る」という言葉がありますが、これなど非常に味わいのある言葉だと思います。自己を護るというのは、何も自分のもっているわずかなものをくよくよする意味ではなく、本当に自分を自分として確立するようにせよという訳です。

(B)なし。

次です。

己れこそ己れの主である。
己れこそ己れのよりどころである。
それゆえに、馬商人が良馬を制御するように己れを制するがよい。

(三八〇) (第25章 出家修行者 より)


(A)繰り返し出てくる訳ですが、自分を大切にするということは、仏教では最初から言われていることです。

(B)なし。

次です。

(A)同じくダンマパダの中に出てきますが、

子も救うことができない。
父も親戚もまた救うことができない。
死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

(二八八) (第20章 道 より)

(A)自分を救う者は自分である。悩むのも救われるのも自分のことではないか。そう言われてみると、確かに自分を大切にして、はっきりした自覚をもって行動することが必要でしょう。

よく世間の例を見ると、(物事が)うまくいかなかった場合には、あれは何が悪かったんだ、誰の責任だと、他に責任をなすりつけてしまう。

どうしてもそうなりがちなのですが、しかし考えてみると、究極の責任は、やはり自分がとらなければならないはずなのです。

その点を非常に古い時代に教えられたということは、今日なお大きな意味をもっていると思います。

(B)なし。

以上で、Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 第二章 真理のことば 第二章 真理のことば ー ダンマパダ までを終わります。

このあとは、第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2) からになります。

息抜きをはさむかもしれませんが、ご了承願います。

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・蔓~まん、ばん~①つる。つる草の茎・まきひげの総称。細長く伸びて物に絡みつき、また地にはう。
②かずら(かづら)。つる草。
③つるを出す。つるが出る。
④のびる(延)。はびこる。
⑤まとう。からまる。

蔓草それ自体は、国語辞典にも漢和辞典にも、載っていなかった。
おそらく、まんそう、と読むと思われる。
中村さんにはこうしたものにこそ、ふりがなをつけてほしいのだが、残念ながらふりがなはついていなかった。

(参考)蔓草寒煙~まんそうかんえん~はびこる草と寂しい煙(けむり)。荒れ果てた遺跡の景色をいう。(漢和辞典より)

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追記: 2021/08/31 01:17 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。