第 1 章 世間のルールになじめない
8.後悔しないために
悪い行いをするよりは、何もしない方がよい。
悪い行いは、後悔する。
善い行いは、したほうがよい。
善い行いは、後悔することがない。
(三一四) (第22章 地獄 より)
何か、現代においても、ごく当たり前のことが書いてあるように感じるが、わかっているようでわかっておらず、実践できているようでいて実践できていないから、この世がこんな風に乱れているのだろう。
因縁と因果の原因と結果としての対応は厳格なので、やったこと、特に、悪い行いの報いは、(原則として)輪廻転生を通して、必ず受けなければならない。
因縁の深いような、業想念の厚い人は、さして罪悪感を抱かない場合があるのかもしれないが、これはあくまでも表層意識(=顕在意識)の段階で、深層意識である本人の神様の意識ではすべてをわかっている。
だから、本来なら修行をして霊性を高めなければならない、高い階層の僧侶などの修行者が、ろくに修行をせずに生涯を終えてしまった場合などには、輪廻転生を経て生まれ変わった後に、自分の体を痛めつけて遮二無二に修行に明け暮れるような人間になることが起こるのだろう。
本人の神意識ではやるべきことをやらなかったことがわかっているから、(顕在意識ではわからずとも)修行せずにはおれなくなってしまう訳だ。
このように、過去世で積み重ねた想いと行いは、神意識でわかっているのみならず、当然、潜在意識にも漏(も)れなく記録されてしまうので、悪い想いと行いならば、その償いが病争貧苦などのような形で、輪廻転生を通したこの世での具現化の過程に載ることになる。
だから、悪い想いと行いは(行いの前には想いがある)、抱かないようにすること、そして、やらない(=行わない)に越したことはない。
他方、良い想いと行いは、潜在意識に記録されて、(原則として)輪廻転生を通していずれは巡ってくる。
これは、神様のみ心に沿うものであり、嬉しかったり、幸せなので、何の問題も生じない、好ましいものである。
従って、
悪い想いと行いには後悔がつきまとい、
良い想いと行いには後悔がつきまとわない、
ということになる。
この経文は、こうしたことを述べていると言えるだろう。