おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

483_仏言葉ー017 ー 赦(ゆる)して争いを鎮めよ

第 2 章 人間関係に気疲れする

17.自己をコントロールする

これについては、今枝さんの訳と中村さんの訳のお二方の訳はほぼ同じなのだが、佐々木さんの訳はなぜか違っている。理由は不明だ。

とにかく、今枝さんの訳と中村さんの訳を下記に記す(改変あり)。

(今枝さん訳)
私達は、必ず死ぬ運命にある。
人々はこのことを理解していない。
しかし、人々がこのことを意識すれば
争いは鎮まる。

(六) (第01章 対句 より)

(中村さん訳)
「われらは、この世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
ーこの理(ことわり)を他の人々は知っていない。
しかし、人々がこの理を知れば、争いは鎮まる。

(六) (第01章 対句 より)

要は、自らの想いを制御して、怨みの応報を防ぎ、争いの持続に終止符を打て、ということだろう。

しかし、また繰り返しになるが、これはそう簡単にできることなのか?

2,500 年前に生きていた人達の方が、現代人よりもおそらく業想念の積み重ねは少なかっただろう、輪廻転生の回数が少ない分は。

また、お釈迦さんという、偉大な指導者を頂いて修行をした出家修行者やお釈迦さんにじかに触れて教えをたまわった人ならば、かなりの感化を受け、この素晴らしい説法を素直に受け入れられただろう。

しかし、お釈迦さんにもじかに会えない、業想念をたくさん積み重ねた現代人はどうなのか。

お釈迦さんの遺された教えを灯明にしても、怨みが消えない、争いが鎮まらない場合も出てくるのではないか。

どうせ、誰しもが死ぬ定めだ、仕方ない、許してやるか、とはそう簡単にはならない場合があるのではないか。

理屈では完全無欠でも、実際に「この怨み晴らさでおくものか」のような迷った想いで幽界とこの世に迷う霊がいるのは、そういうことではないのか。

このように考えてくると、やはり、広くに霊性が開発されることが、不可欠だと思うのである。

なお、これについても、以前に中村さんのところで触れていて、前回( 482_仏言葉ー016 ー 怒らずに怨(うら)みを鎮めよ )にも引用してあるので、ご興味のある方は、そちらを参照されたい。

なお、本経文については、以前に S さんのところでも扱ったので、以下に引用しておく。

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344_法話50-29

29 自分が死ぬということを覚悟する

人々は、
我々は死すべき者だと気づいていない。
この理(ことわり)に、他の人は気づいていない。
この理を知る人があれば、
争いは鎮まる。

(六) (第1章 対句 より)

これは先に見た、342_法話50-28-1 と 343_法話50-28-2 に取り上げた内容と重なるので、もし、お知りになりたい方は、お手数ですが、そちらをご参照願います。

なお、その経文は以下の通りです。

28 わたしも同様に死ぬのだと観察する

この体は衰え果てた。
病の巣であり、もろくも滅び去る。
腐敗のかたまりで、くずれてしまう。
生命は死に帰着する。

(一四八) (第11章 老い より)

まあ、私の言いたかったのは、肉体人間の死はそんなに簡単に諦め切れるものではないし、そもそも、諦観できるような人は、やはり、輪廻転生を通して、そして、今生をも加えて、自力にしろ、他力にしろ、想いや行いそれなりの修行を重ねてきた人なのではないか、ということです。

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①追記: 2021/09/03 18:06
②追記: 2021/09/10 09:24
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と表題を加筆・訂正しました。