おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

484_仏言葉ー018 ー 自らを客観視する

第 2 章 人間関係に気疲れする

18.物事の「真」を見つめる

灌漑技師は水を導き
弓師(弓を作る人)は矢を矯め(まっすぐにし)
大工は木材を矯め
賢者は自己を整える。

(八〇) (第06章 賢者 より)

今枝さんの本では、この経文について、(一四五)の偈を参照とあるので、これを引用する。

灌漑技師は水を導き
弓師(弓を作る人)は矢を矯め
大工は木材を矯め
慎み深い人は自己を整える。

(一四五) (第10章 暴力 より)

これに関して、S さん関連で以前書いたものを以下に引用しておく。

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374_法悟28-3

第1週 心の法則を知る

3 心は川の流れと同じ

工人(こうにん)は水を灌漑(かんがい)する。
矢を作る職人は矢を矯(た)める。
大工は木材を矯(た)める。
理性ある人は自己を整える。

(一四五) (第10章 暴力 より)

この節で S さんのお書きになっていることは、きわめておおざっぱに言えば、以下の通りです。

川でも、矢の材料でも、建築資材でも、そのまま、ありのままでは、目的志向的には役に立たない。有意に使えない。

だから、改良やなどの手を加える、施す必要がある。

人間の心もこれと同様だ。

だから、心を整えましょう、と。

また、あまり要約できませんが、とりあえず、見ていきます(意訳文の追加、改変などあり)。

この偈(げ。サンスクリット語でガーター。詩文のこと)には、こんな因縁話がある。

昔、サーリプッタ尊者(そんじゃ)のところにスカという子供の沙弥(しゃみ)がいた。この子はとても好奇心旺盛で、托鉢に出かけるたびに、尊者に、「あれは何?」「これは何?」と尋ねる子供だったようだ。

スカが最初に見たのは、人々が田に水を引き入れる光景だった。人々が田に有意に水を引き入れるように、一生懸命作業する姿を見て、スカは尋ねた。

「あのおじちゃん達は何をしているの?」
これに対して尊者は、
「ああやって、田んぼにきちんと水が流れ込むように、水路を作り、水を管理しているんだよ」
と答えた。

次に、矢を作る職人のところへ托鉢に行くと、職人の作業工程を見て、スカはまた尋ねた。
「あれは何?」

すると、尊者は、矢とはこのように、曲がっている枝を用い、工夫を凝らして、まっすぐに直して、バランスの取れた矢として作り上げるんだよ、と説明しました。

大工さんのところへ托鉢に行った時には、
「このおじちゃん達は、何を作っているの?」
と訊(き)きました。
尊者は、
「丸太を切ってきて、それを鉋(かんな)で削って、椅子や机など生活に必要なものを作っているのだよ・・・」
大工の仕事について、そう語り終えると、偉大な尊者(原文ママ)はこう言葉を続けた。
「(これと)同じように、いい子は、自分の心をきちんと整理して育てるんだよ」

これに感動したスカは、「じゃあ、自分は心を育てるぞ」と決心して、その日から一生懸命に修行をして悟りを得たというお話だ。

この話で紹介されている内容にはそれぞれに意味がある。

まず最初の田んぼの話。川の水は自然のままでは、(基本的には人間の)生活の役に立たない。しかし、法則により水を管理すれば、私達の生活のあらゆる面で役立つ。だから、自然のままに放ってはおかずに、論理的に管理をする(べきな)のだ。

川ダムなら発電になるし、田畑も潤う。きちんとした水の管理は水害を防ぐことにもなるだろう。降水量が少ない土地ならば、貯水に工夫を凝らせば、これまた生活に役立つ。

だから、自然を効率的に管理すれば、(周辺に暮らす人間の)幸せにつながるのだ。

矢も大工さんの使う木材などの建築資材についても、同様に考えればよい。

(そこで S さんの言うには)人間の心も同じようにきちんと整えて、自らの生き方を管理すれば、人々のために自分を役立たせることができるとしている。

では、心を管理しなかったらどうなるのか。

それは自然のままに放っておくことだ。人間は外部の物質をいじることには興味があるが、自らの心を戒めることには何の興味もない(?)。

心を生まれたままの状態で放置しておけば、川の水と同じく、時々凶暴になって洪水を引き起こす(?)。豪雨が続けば、川の水が氾濫して水害をもたらすだろう。反対に日照り続きなら、水不足で困ることにもなるだろう。

これと同様に、心の働きも管理しなければ、何一つ役立たない(?)。心という流れがあるが、自然のままではどうしても役に立たない(??)、自分を害する方向にしか流れていかない(???)のだ。

世の中では誰もが(?)感情をコントロールできずに、すぐに理性を失う。何をするにも、むき出しの感情で行動するのはとても危険なのだ。だから、常に心にブレーキをかけ、ハンドルをしっかりと握り、理性にもとづき、善い結果が出るように、心の管理をしなければならないのだ。

なぜ世の中でケンカや争いが絶えないのか。何時間も、何日も、何年話し合っても、物別ればかりで結論は出ず、調和も生まれない。ただ話しているだけで自己管理をしていないのだ(?)。自分を管理しているなら、人生は善い方向に行く(?)。

世界平和が実現しないのは、みんなが感情的に行動するからだ(?)。自分の財産が侵害されたから、相手からも奪い返してやるなどと、突発的な感情に流されて行動すれば、世界の政治や経済にとって必ず危険で好ましくない結果を招くことになる。

感情をきちんと整えてコントロールしておけば、私達は想像できないほどの善い結果を得られる。逆に、怒り、憎しみ、嫉妬、見栄、高慢・・・。このような感情に自分の心が支配されたら最悪だ。

だからこそ、こうした悪い感情を抑えて、理性を表に出して生きてみたらどうか。そうすると私達はいつでも平和的に問題を解決することができる(?)。

例えば相手から一方的に危害を加えられ、私(= S さんのこと)が反撃したとする。その場合、「相手が悪いのだから仕返しするのは当然」というのが世間一般の論理だ。

相手を完全なる悪人と看做(みな)し、自分はあたかも正義の人であるかのように悪人を退治する訳だ。

しかし、それは決して智慧のある行いではない。もう少し、理性的に考えよう。もちろん、自分のみならず、相手からも認められるような解決案でなければ意味がない。

私達が感情をきちんとコントロールできたなら、問題解決の糸口は必ず見つかる(?)のだ。

人間関係の問題も同じだ。スカが見た職人さん達のように、論理的に物事を組み立てなければ、何も上手くは行かない。成り行き任せでは、正しい人間関係を築くことなどできないのだ。

夫婦の場合にも、若い時のお互いの魅力にひかれて結婚したからといって、すべてが上手く行くとは限らない。婚姻届くらいなら簡単に出せるが、夫婦の関係は毎日毎日の二人の生活の組み立てをきちんとしないと成り立たない。

自分の感情だけを押し通したり、相手の感情に押し通されてみたり、そんな夫婦生活を続けていたら、たちまち夫婦の関係は壊れてしまう。

ワガママも怒りの感情と同様に、ウィルスのような猛毒を持っているからだ。だから、常にお互いにとって一番いいことは何かを考えることができれば、自動的に答えが出てくるのだ(?)。

人間はいつでも、あれこれと目的と結果について考えているが、なかなか自分で思い描いていた結果には至らない。ほとんどの場合、自分が望んでもいない結果になってしまうものだ(?)。

世界中が頭を悩まされているテロの問題でも、「テロリストを根絶するぞ」と言って攻撃した結果、どんどん事態は悪化している。テロリストは悪人だからつぶすという考えは、無知な人間の頭にも浮かんでくるものなのだ。それは正しい答えではない。

もうちょっと深く色々なデータを把握して、怒りや憎しみの感情ではなく、理性で物事を考えると、誰もが納得できる答えがたちまち見つかる(?)のである。

その答えとはー。

この地球上に生まれた限り、私達は宗教や宗派が何であろうと、国や民衆が違ったとしても、平和で豊かに生きる権利がある。

その基本的な権利を守ろうと考えれば、自然に答えは出てくる。そのためには、お互いに少し自己管理が必要だ。

お互いに感情を引っ込めて「自分の権利が奪われていないのだから、向こうの権利も奪う必要はない」と理性的な思考を表に出すと、ずいぶんと穏(おだ)やかになって落ち着く。そうした自己管理こそが、平和を築くのである。

という S さんのお話ですけれど。

やはり、前回( 373_法悟28-2-1 )と同じように、因縁因果のことに触れていませんね。

ここでのお話は、心を整えるという宗教的な部分があるとはいえ、基本的に唯物論のお話に見えます。

唯物論で良識(良心ですかね?)をもとにして、詰めに詰めるための、冷静な対処法、処方箋(しょほうせん)を探ると、これが最善だよ、と言っているような感じの。

もちろん、こうした心構えは、大前提としても、世の中の成り行きがそれを構成する個人個人の因縁因果の集積ならば、やはり、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行は必要だと、個人的には思うんですけど。

古代のように、個人の自力修行で悟りを得て、その仏性(神性)の光を振り撒く、良い影響を及ぼすのは、きわめて困難で現実的ではないと思うので。

なお、既述ですが、心は、想い、に置き換えて考えています。

肉体人間の想いと行いが、すべての因縁因果を作り、その行く末を左右するからです。

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・灌漑~かんがい~農作物を作るために、田畑に必要な水を人工的に引いて土地を潤すこと。

・工人~字引載っておらず。

・矯(た)める~①曲げたりまっすぐにしたりして目的の形に整える。
(用例)枝を矯める。
②悪い性質や癖(くせ)を改める。矯正する。
(用例)悪習を矯める。
③いつわる。ゆがめる。
(用例)事実を矯めて伝える。
④(弓などで)片目をつぶって狙いをつける。また、じっと見る。
(用例)よく矯めて撃つ。
ここでは、①の意。

・有意~ゆうい~①意味のあること。有意義。
(用例)有意に過ごす。有意差(=統計上、偶然ではないと考えられる差)。
②意志のあること。
(用例)有意の行動。
ここでは、①の意。

・尊者~そんじゃ~①上流の人。身分の高い人。
②目上の人。
③知徳の備わった人・僧。
ここでは、③の意。

・沙弥~しゃみ~仏教語~仏門に入ったばかりで、まだ正式の僧侶になっていない男子。沙弥(さみ)。

・托鉢~たくはつ~僧が修行のための鉢を持って家々を回り、米や銭の喜捨を受けること。乞食(こつじき)。

・乞食~こつじき~①(仏教語)僧が修行のため人家の門口に立ち、食を乞い求めること。また、その僧。
こじき
ここでは、①の意。

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①追記: 2021/09/04 23:41
②追記: 2021/09/10 09:26
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と表題を訂正しました。