おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

487_仏言葉ー021 ー 悪を制する

第 2 章 人間関係に気疲れする

21.悪に打ち勝つもの

怒りには、怒りを捨てることによって打ち勝ち
悪い行いには、善い行いによって打ち勝ち
吝嗇(りんしょく)には、施しによって打ち勝ち
虚言には、真実によって打ち勝て。

(二二三) (第17章 怒りより)

佐々木さんによると、相手が怒っていたら、それに対して自分も怒り相手を打ち負かせると私達は考えがちだが、そうした心を起こさないで、相手に打ち勝つとしたのが、お釈迦さんだとしている。

また、ウソにウソで対抗しても、泥沼にはまるだけ。最後に勝てるのは真実だそうだ。

これに関しても、以前、S さん関連で書いたものを以下に引用しておく(加筆・訂正あり)。

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306_法話50-2

2 怒りは自分を破壊し他人を破壊する

怒りには、怒らないことによって勝てる。
悪事には、善い行為で勝てる。
物惜しみには、分かち合うことによって勝てる。
真実によって、虚言の人に勝てる。

(二二三) (第17章 怒り より)

S さんによると、嫉妬、物惜しみ、後悔、憎しみ、悩み、陰気、苛立ち、嫌な気持ち・・・。

仏教で言う怒りとは、腹を立てて憤るという意味だけではなくて、物事を素直に受け入れることができずに、心の中で対立している働きもあらわしているとされます。

そして、怒りには破壊のエネルギーがあるとされ、それは自分を痛める(S さんは自分の体に火をつけて燃やす、毒を飲むことと同じだとしています)だけではなくて、自らの周囲にも悪影響の波動を及ぼすかのようにお書きになっています。

さらに、それが拡がれば、戦争にさえ結びつきかねない旨もお書きになっています。

なので、世界にはそうした愚かしい事例があったのだから、いくら自分が正しくて相手が間違っていたとしても、決して人を怒らせてはならない、としています。

そうして、怒りには怒りをもって応報しない、応報すれば倍々ゲームのように、燃え盛る恐ろしい火種になることを指摘されています。

で、結論としては、何をされても、何を言われても、自分の心に怒りの火を点けずに、ただ受けとるだけにしていればそれ以上は何も起こらないから、わざわざ争いの渦に飛び込みなさるな、となっています。

前に取り上げた中村さんの原始仏典の本で、古(いにしえ)の人は、あらゆる階層において、宗教家や修行者といった、人の人としてのあるべきより良き道を求めて、真摯な努力をする人達には、いかなる地位の高い人、たとえば一国の君主でさえも敬意を払う話がありました。

こうした社会情勢や土壌が背景としてあり、釈迦のような高潔な宗教家が諄々(じゅんじゅん)と説いて聞かせるならともかく、現代では難しいような気がするんですよねえ、個人的には。

やはり、現代は唯物論全盛で、いかに上手く世を渡るか、金を儲けるか、生き残るかなどと人間=肉体人間とした、自己保存の本能による、自己を中心とした利害得失計算に明け暮れやすい世の中では。

よほど霊性の開発された、霊性の高い人でないと、やられたら、簡単には黙っていられない、やり返さないまでも、不穏な怒りを溜め込みやすい気がするんですよね。

なので。

やはり、真善美に悖る想いと行いは、輪廻転生に持ち込まないためにも、確実に消し去ることが、最善であり、良策だと考えられるんですよね。

よって。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行で、これらの想いと行いの業想念を、浄めて消して頂くことが、望ましいと個人的には考えます。

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・吝嗇~りんしょく~極度に物惜しみすること。また、そのさま。けち。
(用例)吝嗇家(=けちんぼう)。

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①追記: 2021/09/04 23:43
②追記: 2021/09/11 21:00
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と表題を訂正しました。