おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

497_仏言葉ー031 ー 進め方を正しく

第 2 章 人間関係に気疲れする

31.他人ではなく自分と比べる

「私は勝(すぐ)れている」
「私は等しい」
また
「私は劣っている」
と考えている人は、それによって争うであろう。
これら三つのあり方に心の動揺しない人には、(勝れている)とか、(等しい)とかということは存在しない。
もしもあなたがそのような人を知っているならば、それを告げよ、神霊よ。

(サンユッタ・ニカーヤ 第 Ⅰ 篇 第 2 章 歓喜の園 第一〇節 サミッディ 二〇 より)

佐々木さんの本では、経文の出典箇所が、
「サンユッタ・ニカーヤ」
「神々との対話」
第 2 章 ー 10
となっているが、中村さんの本(*)では、該当する箇所が見当たらない。
実は、佐々木さんの本では、こうしたことがそこかしこにある。
これが本当に煩わしくて仕方がない。
これまでのサンユッタ・ニカーヤなどの経文で出典箇所を明示しなかったものがあるのは、これが理由。
内容が同一と判断できたものを今枝さんと中村さんの本から抜粋して用いてきた(今回はとりあえず明示したが)。
それはともかく。
仕方がないので、内容がほぼ同一と思われるものを探すと、上記のものがあったので、それを引用する。

これも、宝島社の佐々木さんの本の巻末のうるさい縛りがあるために、佐々木さんの本にある訳文を素直に使えないゆえなので、ご了承頂きたい。

佐々木さんによると、この世の争いのすべては他者との比較から生じるので、争いを鎮めるには、「昨日の自分」と「今日の自分」のような自分といった、自らの比較に徹する必要があるそうだ。

しかし。

これも、ことによりけりではないのか。

他人との比較に右往左往して、その差を作り出すことに狂奔することは確かに愚かしい。

主に達成するべき目的があっても、この成就に近づかずに、他人との競争に明け暮れて、その相対的な位置付けだけに狂奔し、その挙げ句に、「俺様が上だ」や「お前が下だ」とばかりやっていて、この位置付けだけに得心して慢心するようになり、成就への進歩が疎かになっては、本末転倒だからだ。

だが、やはり、進歩のためには、比較が必要な時もあるのではないか。

絶対基準で自らを精進することは、もちろん、正しいあり方なのではあるが、その客観的な価値尺度を測るためには、他人の水準との比較も絶対基準を測る要因に含まれていることが、往々にしてあるからだ。

つまり、他人との比較は、絶対的な基準を探る参照になる場合があるということ。

従って。

他人との比較は、あくまでも、自らの成就への進捗状況を探る参考にする程度にとどめて、これ以外には一切使わなければよい、ということだ。

今一つは、他者との比較は、自らの進捗を促すための動機付け(モチベーション)となる側面もあるので、これは励みとして、有効に活用すべきという利点もある。

ならば、これはうまく使うべきである。

とは言うものの。

(原則として)過去世からの償うべき業想念があるために、この世に出された肉体人間は、まだまだ悟りには程遠く、至らないのが通常。

比べっこをするのは、ほぼ必定と言える。

だから、比べっこをするのは、絶対的な基準を探るための、あくまでも参考にとどめて、動機付けも巧みに活用しながら、自問自答をしつつ、成就までの道を進んでいくべきだ、という結論になる。

純粋な理屈の上では、上記経文のようにお釈迦さんの言っていることが、正しいのだろう、完璧なものとして。

哲学好きな人や理屈屋さんには、たまらんのだろうね。

ただし、この悟れない人々による業想念のまみれた、まだまだ霊性の開発が不十分なこの世では、こうした基本を抑えつつ、もう少し現実的な処世術も踏まえてやっていくことが必要だ、ということ。

昨今、主に女性の間で大流行り(?)のマウンティングは、まさにこの経文に示された比較に当たる(マウンティングの見本を示したような経文)が、やはり、女性の皆さんにも、その肉体人間としての過去世から溜め込んできたものも含めて、想いと行いを浄めるために、世界平和の祈りとともに、守護霊さんと守護神さんへの感謝行をしてもらいたいと切に願う。

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(*)中村元ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ Ⅱ 岩波文庫(青)

なお、歓喜の園とは、インドラ(帝釈天)の林園なので、神霊とされるのは、帝釈天のことなのかもしれない。

上記経文は、尊師(=お釈迦さんのこと)いわくーとお釈迦さんが語った言葉となってはじまっているから。

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追記: 2021/09/11 21:15 〜訂正内容〜

表題を訂正しました。