第 2 章 人間関係に気疲れする
30.惑わされないために
保留中にしていた項目を更新します。
佐々木さんの代替訳が見つからない。
仕方がないので、佐々木さんの訳文を微妙に変えて充てることにする。
「あらゆるものは有である」とするならば、
こうした考えは、一つの極端な説である。
「あらゆるものは無である」とするならば、こうした考えは、第二の極端な説である。
如来はこれらの両極端な説には近づかないで、
中道によって法を説くのである。
(サンユッタ・ニカーヤ)
佐々木さんのこの項目に関しての解説は、ほとんどない。
ニカーヤがお釈迦さんが亡き後、早い時期にまとめられたその教えを色濃く残している経典であることと、これが仏教の中道(ちゅうどう)の教えを説いたものくらいにしか書いていない。
個人的な感覚だが、縁起や非我や無我と同様に、この中道もどうもつかみどころがない話に思えてしまう。
前に読んだひろさちやさんの釈迦という本の中道の解説を読み直したのだが、どうもしっくりこない。
という訳で、私なりに感じることはあるのだが、まだ考えがまとまりきらないので、中道の一般的な見解を引用するにとどめる。
(その1)
仏教用語としての中道は、2つのものの対立を離れていること。
断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと。
中行、中路あるいは単に中ともいう。
中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を中道の語で表す点は一致する。
(筆者注)これを読んでまともに理解できる人は、そう多くはないだろう。
まるで意味のわからない文字列を読まされているようだ。
(その2)
仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くこと。
仏陀(ぶっだ)は苦行と快楽を離れた中正な方法(苦楽中道)によって悟りに到達し、それを具体化するために八正道(はっしょうどう)を説いた。
大乗仏教ではこの考えがさらに深められ、有(う)・無(む)、生(しょう)・滅(めつ)などに代表されるような日常的な観念やことばを超えたところに究極的な真理があり、それに達するために「すべてのものは空(くう)である」とみることが中道であるとされる。
(筆者注)これもよくわからない。
そもそも、空の理解がはっきり定まっていないのではあるまいか。
もしも、空を実質的に虚無のようにとらえるならば、個人的には、わけがわからない。
こうした文章を読むと、仏教はとりつきにくい、やたらめったら難解だな、といった先入観を植えつけやしないだろうか?
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①追記: 2021/09/11 21:13
②追記: 2021/10/09 04:05
③追記: 2021/10/09 04:06
④追記: 2021/10/09 04:11
⑤追記: 2021/10/09 11:20
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。