おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

481_仏言葉ー015 ー 執着なければ憂いなし

第 1 章 世間のルールになじめない

15.「私のもの」という意識

今回は、サンユッタ・ニカーヤ の経文になる。

ただ、これも今枝さんの本には出ていなかったので、中村元ブッダ 悪魔との対話 サンユッタニカーヤ Ⅱ 岩波文庫 から引用することにする。

ああ、面倒くさ。

宝島社の佐々木さんの本の巻末のうるさい縛りさえなければ、こんな面倒な手間かからないのに。

しゃあないな。

なお、サンユッタニカーヤ での引用されている部分は、

第一集 詩句をともなった集 の
第 Ⅳ 篇 悪魔についての集成 の
第八節 歓喜
の中に含まれている。

佐々木さんの引用している部分は、その中の一部分(以下の 三 のところ)。個人的には、全体を見たほうがわかりやすいと思うので、以下、第八節 をそのまま引用する(改変あり)。

一 私(わたくし)はこのように聞いた。或(あ)る時尊師(=お釈迦さんのこと)は、サーヴァッティー市で、ジェータ林・(孤独な人々に食を給する人)の園にとどまっておられた。

二 その時悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。
人間の喜びは、執著するよりどころによって起こる。
執著するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。」

三 尊師いわく、ー
「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
人間の憂いは執著するよりどころによって起こる。
実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない。」

四 そこで悪魔・悪しき者は、「尊師は私のことを知っておられるのだ」と気づいて、うち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。

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執著(しゅうじゃく)は、仏教語で、ほぼ現代語の執着のこと。

物や人に対する、俺のものだ、というこだわり=執着がなくなれば、楽になるよ、というお話。

しかしながら、話はそう簡単ではない。

理屈の上では確かにそう分析可能だ。

しかし、現実はどうだ?

みんな、ほぼすべての人が、物や人に執着しているではないか。

理屈だけで、説き伏せられるほど、現実は生やさしくない。

なぜなら、人にはそれぞれに、過去世の因縁があるからだ。

物や人にこだわるという、肉体人間としてたくさんの過去世を生きてきた想いのクセがあるからだ。

過去世からかなりの霊性の開発に相当する修行を積み重ねて、今生で足るを知るような感覚を備えた人や、こうした説法を聞いて、納得できる因縁を持った人でないと、変わるのは難しいはずだ。

文句になってしまったが、私個人としては、そう思う。

だから、いいお話だと聞くばかりではなくて、(今生でも、来世以降でも)こうした因縁の状態に持っていくために、霊性の開発は不可欠だと思うのである。

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追記:
①2021/09/02 21:27
②2021/09/02 21:32
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。