おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

505_仏言葉ー039 ー 善行のすすめ

第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない

39.幸せになるまで

善い行いの果報が熟すまでは
善人でも災いに遭うことがある。
しかし善い行いの果報が熟した時には
善人は幸いに遭う。

(一二〇) (第09章 悪 より)

佐々木さんによると、この経文は、良い行いをしても、(今生の今)すぐに報いが得られなくても、必ず、機が熟せばよい結果がもたらされるから、大いに良いことをしなさいとお釈迦さんが説いたもののようだ。

仏教の善には、人助けのような一般的な善と、涅槃に達して二度と生まれ変わらなくなるための仏道修行の二段階の善があるそうだ。

お釈迦さんは、一般向けのダンマパダ(法句経)で人々に善行をすすめる一方、僧侶には、善悪の業を作らずに暮らせば必ず涅槃に入るだろうと説いたそうだ。

まあ、強いて一言付け加えれば、良い報いが欲しい、欲しい、と物欲しげに善行に励むのは、霊性面では、まだまだだ、至らない、ということになる。

老子さんの言うように、何の報いも、何の結果も意識せずとも、スッと自然に良い行いができる。

孔子さんの礼も何も取っ払って(?)、何もかもが自然体。

神もよおしに良い行いが自然にできる。

これこそが、良い行い、徳の望ましい形と言えるでしょうね。

なお、この経文については、すでに別のところで触れたので、以下にそれを引用しておく。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

485_仏言葉ー019 ー 因果律の厳しさ

第二章 人間関係に気疲れする

.19.罪からは逃げられない

大空の中にいても、大海の中にいても
山中の洞窟に入っても
およそ世界のどこにいても
悪い行いの果報からは逃れられない。

(一二七) (第9章 悪 より)

佐々木さんによると、これは悪業の恐ろしさを説いたお釈迦さんの言葉だそうだ。

そして、この経文は、善の性質について述べた、(一二〇) と対になっているそうだ。

ちなみに、それは以下の通り。

善い行いの果報が熟すまでは
善人でも災いに遭うことがある。
しかし善い行いの果報が熟した時には
善人は幸いに遭う。

(一二〇) (第09章 悪 より)

この前者は、真善美に悖ることである業想念、中でも特に明らかに悪い想いと行いをしたら、絶対に逃れられないという意味でしょうね。

これらは、原則として、輪廻転生を通して、因縁=原因、と、因果=結果、として実を結ぶということでしょう。

後者は、この世に生を受けた肉体人間としては、通常は誰でも何かしら償うべき過去世の真善美に悖る業想念があるので、当然に今生において災いなどにも遭う可能性がある訳です。

しかし、真善美に悖らない良い想いと行いは、原則として輪廻転生を通して、この世で果報として実を結ぶ、すなわち、良いことや楽しいことや嬉しいといった幸せとして実を結ぶという意味でしょうね。