おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

494_仏言葉ー028 ー 想いがすべて

第 2 章 人間関係に気疲れする

28.自分の行いで人生が決まる

荒々しい言葉を語り
他人(ひと)を苦しませ、悩ますことを好み
獣(けもの)のようにふるまうなら
生活は悪くなり、汚(けが)れが増す。

(スッタニパータ より)

この経文は、他人に対する粗暴な行いや言葉が、自分自身の生活を荒らしていくのだ、との戒めだそうだ。

佐々木さんのつけた表題は、「自分の行いで人生が決まる」、つまり、行いが人生を決めるとなっているが、実質は想いだ。

行いの前には、想いがあるからだ。

想いがすべてを決める。

肉体人間の運命は、過去世(前世、前々世、前々々世・・・)からの、その霊魂魄が抱いてきた、その想いがすべてを決めている。

たくさんの輪廻転生を通して最終的な上がりとなり、まっとうされるはずの天命は、神様からあらかじめ授けられているにしても、それまでをどのように持っていくかは、その霊魂魄の肉体人間として生きていく時の、想いの持ち方次第になる。

荒々しい乱れた他人に対する攻撃的な想いがあるから、荒々しい言葉を使い、人を苦しませ、悩ますことになる。

そうした、苦しめた他人を眺めながら、これを好むなどは、最悪である。

他人に対するこうした想いは、最悪の真善美に悖る肉体人間の想いと行いの業想念なのだ。

こうした業想念を、肉体人間として新たにつくり出してしまうと、原則として輪廻転生を通して、このような真理に悖り、善に悖り、美に悖る、神様のみ心には適わないものは、すべてなかったものとなるように、自ら(霊魂魄)をもって償わなければならなくなるのだ。

業想念という汚れをつけてしまった神様の分霊である、霊魂魄の汚れ落としをしなければならなくなるのである。

バカ、アホ、クズ・・・と他人を罵れば、輪廻転生を通して、今度は逆の形で、バカ、アホ、グズ・・・と他人から罵しられるような立場に、否応なしに置かれることになるのだ。

罵倒を味わわされるはめになるのである。

それも、否応なしに、だ。

そうした他人を貶める自分の立場に優越感を感じ、あまつさえ、楽しむならば、自らがそのように蔑まれるような立場に否応なしに置かれることになるのである。(*1)

獣というのは、おそらく動物のことだから、神性を備えた肉体人間よりも、はるかに(?)自らの肉体を中心とした利害得失計算に先鋭化した行動をとる生物のことを言っているのだろう。

こうした、身勝手きわまる、周囲に対しての攻撃的で、居丈高な生活をしていれば、過去世の因縁によって(*2)は、何事もなく今生を送れてしまう場合もあるのかもしれないが、今生だけでも、大抵は周りからの反感や反発を買い、争いが絶えなくなるし、何よりも、輪廻転生を通して、来世以降に、こうした業想念の多大な償いが待っている。

それは、他人からいわれもなく(*3)苦しめられ、悩まされ、獣のようにふるまわれる、ということだ。

従って、今生(今回の人生)でも、来世以降でも、生活は苦しく、つらい、悪いものとなっていくのは必定、ということになる。

この経文は、おそらく、こうした内容を煎じ詰めて、述べているのだろう。

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(*1)かなり前に、幾度となく述べた、ゴブチ(傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)の略)については、今回の書いたことを応用して考えれば、輪廻転生上、どれほど厳しいことが起きてくるかは、ある程度は想像がつくはずだ。

私は書くのを避けて、ひたすらやめて下さいのように懇願してきた理由は、ここにある。

(*2)過去世において、世のため人のために尽くした徳を積んでいる、それも、信じられないほどにたくさん積んでいれば、ある程度のわがまま勝手をしても、その徳のために、今生で起きるはずのトラブルも難なくやり過ごせてしまうほどの地位や力を持って生まれついてくる可能性があるから。

過去世から積み重ねてきた徳、仏教で言うところの善業が有り余っていれば、こうした可能性がある、という話。

(*3)いわれもなく、つまり、思い当たる節もなく、というのは、過去世の自らの行ってしまった悪い想いと行いの記憶が消されていて、その記憶がないために、今生の今現在、ひどい目に遭う正当な理由がわからないからである。

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①追記: 2021/09/07 12:05
②追記: 2021/09/11 21:11
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と表題を加筆・訂正しました。