おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

535_仏言葉ー068 ー 良いことを集めてしよう

第 5 章 やりたいことが見つからない

68.善をなせ

うず高く集められた花で
花飾りが作れるように
必ず死ぬ運命にある者として生まれた人生で
多くの善いことをなすことができる。

(ダンマパダ) (五三) (第04章 花にちなんで より)

肉体人間は、寿命があり、必ず死ぬんだから、良いことをしなさい。

前にやっていますね、これは( 531_仏言葉ー064 ー 今を生ききる )。

行いを選りすぐって集めることもやっています、多少、疑問をはさみまし たけど( 534_仏言葉ー067 ー 学び努めて悟りを開こう )。

佐々木さんによると、インドでは、職人が花を集めて山を作り、善い花を選んで糸を通して、祈りのための花輪を作る伝統があるそうだ。

私達もそうした花飾り作りのように、日常から良い行いをして合わせていくことが肝要だ、ということ(を言いたい)らしい。

なお、ダンマパダ(法句経)は、一般向けなので、ここにある善いこととは、人助けなどの日常的な善行を意味し、僧侶の善行の仏道修行である煩悩を消すこととは異なるそうだ。

とりあえず、ご参考までに、過去の文章を引用しておきます。

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1.限りある寿命だから良いことをしなさい

531_仏言葉ー064 ー 今を生ききる

第 4 章 これから先がどうなるか不安

64.人生の時間を活用する

人間の寿命は短い。
立派な人はそれを軽んぜよ。
頭髪に火がついて燃えている人のように振る舞え。
死が来ないということはあり得ないからである。

(サンユッタ・ニカーヤ)

佐々木さんによると、(肉体)人間にはは死は免れないのだから、長く生きることが最高の幸せだという考えを捨てよ、ということだそうだ。

中村さんは、それ(寿命)を軽んぜよ、と訳しているが、佐々木さんは寿命のことなど放っておけ、と訳している。

佐々木さんは、人生は短いのだから、遊興や愛欲などにかまけていたら、死に臨んでは苦しみの元になるので、残されている時間は自らを高める(修行か、あるいはこれに準じる修養のことだと思われる)努力をすべきだ、としている。

要は、短い人生を、心を修めるために有用に使え、ということだろう。

これだけだと、ありきたりな話に見えるし、今までの内容でも重なるものがある( 528_仏言葉ー062 ー 涅槃を目指そう など)ので、この際なので、ご参考までに、この経文が含まれている節(第九節 寿命(一))と次の節もついでに概要をご紹介しよう。

上記経文は、悪魔・悪しき者とお釈迦さんの対話のある節(第九節 寿命(一))お釈迦さんの締めくくりとなる言葉である。

以下に、概要を示す。

中村元ブッダ 悪魔との対話
サンユッタ・ニカーヤ Ⅱ 岩波文庫(青版)
第Ⅳ篇 第一章 (改変あり)

第九節 寿命(一)

一 私はこのように聞いた。
ある時尊師は、王舎城の竹林園のうちの栗鼠飼養所にとどまっておられた。

二 その時尊師は修行僧達に告げられた。
ー「修行僧達よ」と。
それらの修行僧達は、尊師に向かって「尊いお方様!」と答えた。

三 尊師は次のように説かれた。
ー「修行僧達よ。
この人間の寿命は短い。
来世には行かねばならぬ。
善をなさねばならぬ。
清浄行を行わねばならぬ。
生まれた者が死なないということはあり得ない。
たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである」
と。

四 そこで悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。
近づいてから詩を以(もっ)て尊師に語りかけた。ー
「人間の寿命は長い。
立派な人はそれを軽んじない。
乳に飽いた赤子のように振る舞え。
死の来ることがないからである。」

五 尊師いわく、ー
「人間の寿命は短い。
立派な人はそれを軽んぜよ。
頭髪に火がついて燃えている人のように振る舞え。
死が来ないということはあり得ないからである。」

六 そこで悪魔・悪しき者は
「尊師は私のことを知っておられるのだ。
幸せな方は私のことを知っておられるのだ。」
と気づいて、
打ち萎(しお)れ、
憂いに沈み、
その場で消え失(う)せた。

第一〇節 寿命(二)

一 ある時尊師は王舎城にとどまっておられた。
そこで尊師は次のように言われた。ー
「修行僧達よ。
この人間の寿命は短い。
来世には行かねばならぬ。
善をなさねばならぬ。
清浄行を行わねばならぬ。
生まれた者が死なないということはあり得ない。
たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである。」
と。

四 そこで悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。
近づいてから詩を以て尊師に語りかけた。ー
「昼夜は過ぎ去らぬ。
生命はそこなわれない。
人の寿命は巡り迴転する。
ー車輪の輻がこしきのまわりを巡り迴転するように。(*)」
と。

三 尊師いわく、ー
「昼夜は行き過ぎ、
生命はそこなわれ、
人間の寿命は尽きる。
ー小川の水のように。」
と。

四 そこで悪魔・悪しき者は
「尊師は私のことを知っておられるのだ。
幸せな方は私のことを知っておられるのだ。」
と気づいて、
打ち萎(しお)れ、
憂いに沈み、
その場で消え失(う)せた。

第一章 おわる

教えの要目
「苦行と祭祀の実行」と、「象」と、「きよらかなもの」と、「わな」の二つ(わな(一)(二))と、「蛇」と、「眠る」と、「歓喜」と、「寿命」(寿命(一)(二))の二つとである。

以上の寿命(一)のお釈迦さんの悪魔・悪しき者への答えが、今回の経文になる。

お釈迦さんが、ここで言っているのは、

・肉体人間の寿命は短い(限りがある)。
・輪廻転生を経て皆に来世があるであろう。
・その今生(今回の人生)で限られた命を生きている間は、善行をせよ。
・清浄行(しょうじょうぎょう)という清らかな行いをせよ(初期仏教なのでお釈迦さんの教え全般ととらえてもよいだろう)。
・肉体人間としてこの世に生を受けたら、死は避けることができない。必ず、寿命を迎える。
・肉体人間の寿命はどんなに長くても 100 年とちょっとだ。

ということで、これを受けた悪魔・悪しき者は、以下のように言っている(と思われる)。

・いやいや、肉体人間の寿命は長いではないか。
・立派な人は長生きを重んじますよ。
・幼子が柔らかな布や枕の上に無心で横になり眠るように乳を飲んでいるように穏やかにゆったりとしていなさい(時間はあるんだ)。
・そんな簡単には死にませんよ。大丈夫、ゆっくりしていなさい。

これに対して、お釈迦さんは、さらに以下のように返す。

・いや、そんなことはない。肉体人間の寿命は短いのだ。いつ疫病が流行り病に倒れるか、いつ何の事故や災難で寿命を迎えるか、皆の(悟りを開いていない)者はわからないのだ。
だから、何の不可抗力のことが起こるかわからないのだから、長生きすることばかりに心を奪われたり、長生きこそが幸せだと考えるのは良くない。
・頭に巻いているターバンに炎が燃え上がっているように、常に緊急時だと思い、わが身を引き締めよ。
・寿命は必ず迎えるものだし、いつ来るかは(普通は)わからないのだ。これをよくよく心せよ。

という、お釈迦さんの答えで、悪魔が降参して去ったという話(大体、こんな感じだと思われる。幼子が乳を飲むくだりと頭にターバンを巻いているくだりは、中村さんの本の注釈を参考に書いている。なお、寿命(二)の方は、ご興味のある方はお手数ですみませんが、ご自身でお調べ下さい)。

つまり、肉体人間には、厳然として限りがあることと、その寿命を終えるのがいつかは(基本的に)不明だから、生きている時間を精一杯生かせ、ということですね。

なお、ここでは明言していませんが、おそらくは、暗に、今生の命を精一杯生ききれば、来世以降にも善行や清浄行の結果がつながるし、これは今生で悟りを開けなくても、来世以降には必ずプラスになるという意味合いも含まれている、と考えられます。

仮に、輪廻転生を前提とせずに人生を今生のみで考えても、輪廻転生を前提として来世以降をも含めて考えても、今の命を精一杯生ききることが大事だよ、とお釈迦さんはいいたかったのかもしれませんね。

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(*)輻~ふく~牛車の車輪の轂(こしき。牛車などの車軸を通す、車輪の中心の太い丸い部分)と外輪を結ぶ線状の棒。現代語ならスポーク。車の輻(や)。

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2.その中でも、良いものを厳選して集めなさい

534_仏言葉ー067 ー 学び努めて悟りを開こう

第 5 章 やりたいことが見つからない

67.学びは武器

学び努める人が、この地上界と
ヤマの世界と神々の世界とを征服するだろう
学び努める人々が、素晴らしい真理の言葉を
手慣れた人が花を摘み集めるだろう。

(ダンマパダ) (四五)
(第04章 花にちなんで より)

佐々木さんによると、学び努める人(佐々木さんの訳では学ぶ人となっている)とは、智慧(現代なら悟りに通じる素晴らしい知恵でいいだろう)を磨き正しい生き方や考え方をすることに努める人のことだそうだ。

それで、死の神である閻魔も含めたすべての世界の苦しみを取り除く。

花取りの名人が花を集めるように、学び努める人は真実の言葉を集めて理解することで安楽を実現するということらしい。

やはり、世界のことも神々のことも何の定義も境界分けもないまま、漫然と神々やすべての世界を出してくる。

この解説を読むと、この世もあの世も神様の世界(?)も、みんな一緒くたで、ごちゃごちゃに感じる。

とりあえず。

この (四五) は、内容的には直前の (四四) と対になっていると思うので、改めて、両方を記す。

誰が、この地上界
ヤマの世界、神々の世界を征服するだろうか?
誰が、素晴らしい真理の言葉を
手慣れた人が花を摘むように、摘み集めるだろうか?

学び努める人が、この地上界と
ヤマの世界と神々の世界とを征服するだろう
学び努める人々が、素晴らしい真理の言葉を
手慣れた人が花を摘み集めるだろう。

(ダンマパダ) (四四・四五)
(第04章 花にちなんで より)

今枝さんの注釈によると、ヤマというのは、人類最初の死者で、ここから転じて冥界、ことに地獄の支配者で、死者をその生前の行いによって裁く閻魔王となったそうだ。

こうしたことを、総合的にみてくると、この世で、正しいとされる(つまり、お釈迦さんがすすめるような)生き方に励み努めて、悟りを開いたような人は、
この世もあの世も、神様の世界もすべて理解して超越するほどに、あまねく真理に通じて、
そうした素晴らしい真理をあらわす言葉を状況に応じて、適宜に教える、発することができるだろう、
といった意味合いに解釈できる。

この世にいて、肉体を持ちながらも悟りを開くことは、
肉体人間でありながらも、自らの本体、本質が神(仏)の命そのものであると感得したことであり、
あらゆる肉体にまつわる想いである感情想念にとらわれることなく、
神様(仏様)の想いと行いをそのままに自然にあらわすことのできる素晴らしい人となるので、
真理をあらわす言葉を集めて(わざわざ集めなくても、神様の方から流れてくる光をそのままあらわすので、集めるというのは、ちょっとまだ、悟れていない段階の人のような気もするのだが・・・)状況に応じて適宜に発することも、当然にできるだろう。

大体、こんな意味合いだと解釈できます。

神々とされる方々のように、肉体という粗い波動で、あらゆることをするのになにかと時間がかかる重いものをまとい、肉体にかかわって生じてくることのない方々からすれば、
肉体という大変な煩わしいとらわれを持ちながらも、
神々という神様(仏様)そのままの想いと行いを、(肉体を持つから当然にこの世の中で)あらわせるということは、
この世(現界)も、
あの世(幽界)も、
神様の世界(霊界・神界)も通じて、
一目置かれる存在となる、
ということじゃないですかね。

確か五井先生の本にあった(どの本か忘れた)、神様がお釈迦さんに敬意をあらわして礼拝するというのは、こうした内容だったように思います。

それがこれらの経文では、すべての世界を征服する(失礼ながら、征服って、あまり適切な表現には思えないんだけど、個人的には)とされているものと思われます。

ちなみに、征服を字引で引くと。

征服~せいふく~①従わない相手を武力などで従わせること。
(用例)敵を征服する。
②困難に打ち勝って、目的を果たすこと。
(用例)エベレストを征服する。

ということは、少なくとも、②の意味ではありませんね。

消去法で、①ということになってしまう。

これはまずいのではありませんか。

征服や折伏(しゃくぶく)は、相手を力ずくで屈服させるという意味を含みます。

力ずくで相手を屈服させるということは、元々、不調和だったものを、無理矢理調和させるということです。

つまり、これは真善美に悖るのではありませんか。

屈服させられる側が、納得できない場合や、万が一、恨みを抱いたらどうするんですか。

こうした感情は、真善美に悖る想いと行いの業想念なのではありませんか。

争いを生じること。

(後々の)争いの原因をつくること。

これは、神様のみ心には、適わないのではありませんか。

折伏とは、仏教語で、
仏法の力で悪を屈服させること。
相手を説き伏せて信仰の道に導くこと。
とあります。

しかし、本来なら、説き伏せるのではなく、相手自身に悟らせる形で納得させ、自ら身を引かせて、調和に至らせるのが本来あるべきやり方なのではありませんか。

少し前にお釈迦さんと悪魔・悪しき者(以下、悪魔と略)とのやり取りを扱いました( 531_仏言葉ー064 ー 今を生ききる )。

あそこを見る限り、悪魔が、お釈迦さんの頃合いを見計らって、勝手にやってきて、それをお釈迦さんが排斥するという形になっていました。

お釈迦さんが、勝手に出向いて行って、徹底的に悪魔を攻撃したり(お釈迦さんは相当な神通力の持ち主だったので、こうしたこともやろうと思えばできたと思われる)、掃討した形にはなっていない。

さすがに、悪魔は、簡単には引き下がらないし、相当な手練れと認識していたためか、お釈迦さんが強い語調(?)で退けてはいるが、戦いというまでの感じはしない。

多分、一般的な私達は、まだまだ、浄まっておらず、かなりの業想念があるためか、単純な勧善懲悪もの、善と悪の戦いものが、大好きなように思われる。

あまり、地味だったり、辛抱強さを要求されるのは、苦手なように思われるのですよ。

しかし、調和や安楽、安穏を旨とするならば、やはり、折伏や降魔の利剣というのは、どうもあまり馴染まないような気がするんです。

これは、あくまでも、私の独断と偏見なので、その点は、ご容赦願います。

失礼致しました。

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追記: 2021/09/20 23:43 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。