おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

239_原仏14ー7

前回 ( 238_原仏14ー6 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針 
第三章 生きる心がまえ ー サンユッタ・ニカーヤ(2)
二 他とのかかわり からになります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー 他人の立場でー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)人間、どうかすると悪徳にひかれるおそれがありますが、その根本は何か、という点をついた対話があります(第 Ⅲ 篇 第 一 章・第 八 節)。

(ある時尊師は)サーヴァッティー市において・・・。
そのときコーサラ国王パセーナディは、マッリカー夫人とともに、
見事な宮殿の上にいた。

(A) 宮殿の中にいたといわないで、宮殿の上にいた、とされるのは、以下の理由によります。

当時のインドの上流階級の習わしは、平らな屋根の上に登って涼み、月を眺め、会話を楽しむことでした。

これは、今日(今から約33年前)まで続いています。多くの地域では、雨季以外には雨がほとんど降らないので、屋根の上で涼をとるのが最高の楽しみだとされています。

雨量の多い地方では、中国や日本のように尖(とが)った屋根になっていますが、ガンジス河の流域などでは、大きな屋敷の屋根は平らになっています。私(=中村さん)も屋根の上で寝た経験があります。中々気持ちがいいものです。

続きです。

そこでコーサラ国王パセーナディは、
マッリカー夫人に言った、
「そなたには、
自分よりももっと愛(いと)しい人が、
だれかいるかね」と。

(A) 王は妃(きさき)にそういう質問を向けて、妃から甘い答えが返ってくると思っていたのでしょう。ところが妃の答えはまことに冷たいものでした。

続きです。

「大王さま。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。
あなたにとっても、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」

(A) 王は次のように答えざるを得ませんでした。

続きです。

「マッリカーよ。
私にとっても、
自分よりもさらに愛しい他の人は
存在しない。」
(*)経文の「わたし」に漢字の「私」を充てた。「わたくし」はひらがなのままにしてある。

(A) ハッと気がついたのですね。そう言われてみると、誰だって生きている限りは、まず自分のことを本能的に考えるのは避け難い運命です。生きているということと裏腹になっています。それを、この二人の対話はついている訳です。

(B) ここで中村さんの言われている甘い答えとは、国王が、自分は国王で権力も財力といった力も一番あるし、妃にも愛されているから、当然、妃自身よりも、自分(国王)の優先順位が上で、大事な存在だ、とする答えのことでしょう。

妃自身の存在(命?)よりも自分を大事な存在だと言ってくれるものと期待して、問いを発したのでしょう。

ところが、妃の答えは意に反して、妃自身の保身(や栄華?)が最優先。期待はずれだった訳ですね。

人間、特に、霊性が開発されていない肉体人間は、自分だけがかわいいのが当たり前。

地球さんの開発のために、自己保存の本能を付与されているし、あまたの輪廻転生を通して、人間=肉体人間だ、と深く深く深くしみついてしまっている。

他人同士(夫婦も元は他人)でも、本体は、神様の分霊(わけみたま)であり、その神様の命においては、同じ神様の子供としての兄弟姉妹だということがまったくと言っていいほどにわからない。

肉体として別々にわかれてしまっていることもあり、悟りを開いた人以外は、深い自他一体感を抱くことができないからです。

だから、悟りを得た人を除いては、どんなに愛し合っていても、特に親子ではない元々の他人同士の夫婦の結びつきでは、相手を自分よりも、この世で一番大切だとは思えない訳ですね。

中村さんの言っている、「誰だって生きている限りは、まず自分のことを本能的に考えるのは避け難い運命です。生きていることと裏腹になっています」は、意味がよくわかりません。

避け難い運命?

生きているということと裏腹?

私には何のことかサッパリ意味がわかりません。

強いて、言わんとしている意味を推し量ると。

避け難い運命とは、おそらく、肉体人間が、自分のことだけ、あくまでも自分を中心とした利害得失計算を考えて、これにもとづき生きていく習性があること、を言っているのでしょう。

あくまでも自分。すべての価値判断の主体は、肉体人間としての自分以外にはなく、何があっても、自分の身の保全と利益の最大化をはかる習性がある、と。

こうした行動を本能としてとるものだ、と。

生きていることと裏腹というのは、肉体人間としての命がある限りは、こうした自らの保全と功利の最大化とは、表裏一体で避けられないことだと言っているものだと思われます。

続きです。

そこでコーサラ国王パセーナディは、
宮殿から下(お)りて、
尊師のおられるところにおもむいた。
近づいてから、尊師に挨拶して、
傍らに坐(ざ)した。
傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは、
尊師に向かって次のように言った。
ー 

(A) 国王でさえも、宗教者である釈尊(お釈迦さんの尊称)に対して非常な尊敬をはらっています。

だから、真正面には坐(すわ)らないで傍らに坐したのです。

続きです。

尊いお方さま。
ここでわたくしは、
マッリカー妃とともに、
みごとな宮殿の上にいて、
マッリカー妃にこのように言いました。
ー そなたは、自分よりももっと愛しい人が、誰かいるかね?と。
そのように言われて、
マッリカー妃は、
わたくしにこのように申しました。
ー 大王さま。
わたくしには、
自分よりももっと愛しい人はおりません。
あなたにとっても、
ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?と。
このように言われたので、
わたくしはマッリカー妃に申しました。
ー マッリカーよ。
わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しないと。」

(A) 自分が一番かわいいのだ。これはどういうことだろう、と思って、改めて反省を促された訳です。

(B) これは、国王でさえも、どんなに妃を愛していても、自分(の命?)よりも大事には思えないことから、妃の言うのももっともだ、と理解した場面なのでしょうね。

わが身に置き換えてみて、妃の言ったことがよくわかった、理解できた、と。

続きです。

そこで尊師はこのことを知って、
その時、この詩を唱えられた。
ー 「どの方向に心でさがし求めてみても、
自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。
そのように、
他人にとっても、
それぞれの自己がいとしいのである。
それ故に、
自分のために他人を害してはならない」と。

(以上、第 一 巻 七五 ページ)

(A) ここの「自己がいとしい」は、「自己が愛しい」と書くべきだと思いますが、なぜ、ひらがなに変えてあるのかは不明です。表記をわざわざ変える意図がわかりません。

以前にも、お断りしましたが、中村さんの引用する経典には、こうした表記の不統一がたびたび出てきます。

なぜなのか、理由がサッパリわかりません。

(A) 自分のことばかり考えて反省のない人は、他人の立場になって考えることをしません。

けれどもよく反省してみると、自分が「嫌だな」と思ったら、他の人も「嫌だな」と思うはずです。自分が欲しければ、他の人だって欲しいに違いない。

相手の立場に立って考えるということ、これが世の中で一番大事なことです。そこから、愛とか慈悲と呼ばれるものが出てくるのです。

(B) ( 233_原仏14ー1 - おぶなより ) の
ーもの惜しみー
のところでも書きましたけど、自分がやられるのは嫌だから、他人にもやらない、というのは、功利主義ではありませんか。

自他一体感は、もちろん、大事なことです。

しかし、これは、私達肉体人間が、神様の分霊(わけみたま)を本体とする、神様の子供であり、その神様の分け命という意味では、みんな兄弟姉妹である、という意味が根底にあるからこそのものなのではありませんか。

だからこその、自他一体感ではありませんか。

なぜ、こんなことを言うのかと言えば。

例えば、重い苦しみを抱え、半ばノイローゼになって、自殺まで考えている人がいるとしましょう。

この人(以下、彼とします)にしてみれば、もう生きているのが嫌だ、死にたい、と考えていることも十分にあり得ますよね。

ノイローゼで、鬱(うつ)状態や精神錯乱状態ならば、死んでも構わないと思っているかもしれないんです。

ということは。

このような場合には、自分がやられるのは嫌でも(当たり前ですよ)、ノイローゼ状態の彼にしてみれば嫌ではない可能性がでてくるんですよ。

彼が嫌ではなくても、そんなことは、絶対にあってはなりませんよね。

それはなぜですか?

同じ神様の子供であり、兄弟姉妹であり、神様から授けられた天命を果たして、寿命をまっとうするまでは、私達肉体人間は勝手な手出しをしてはならないからですよ。

彼の定まった神様が定めた寿命が来てしまえば仕方がない。

しかし、この寿命は(特別な人を除き)誰にもわからないんですよ。

やられるのが嫌だからやらない。ここから、愛や慈悲が出るですって?

そもそも、神様は愛なのではありませんか。

神様は元から、真なるもの、善なるもの、美なるものを体現されている、愛に満ちた存在なのではありませんか。

やられないから、愛や慈悲が出てくるのはおかしいのではありませんか。

神様は元から愛の存在なんです。

肉体人間である私達の本質が神様の子供なら、愛や慈悲を持つのは、当然なのではありませんか。

それがわからずに世の中の人が迷いに迷ってしまっているのは、あまたの過去世で積んでしまった業想念があるためですよ。

本質が神様である以上、元から救われているんです。

仏教なら、もとから仏性を持つということでしょう?

だから、古(いにしえ)なら自力による修行をすることで悟りを開くのでしょう?

仏性がなかったら、悟りなんか開けないはずです。

違いますか。

地球さんにしたって、自然にしたって、どれだけの恵みがあるか、はかりしれない。

私達肉体人間の命も、環境も、すべて与えて下さっている。

これこそが、神様なのではありませんか。

だから。

話を利害得失計算に持ち込むことは、非常によろしくない、としか思えないんですよ。

例えば。

五井先生の教えに、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し人を愛す、というのがありますが、あの場合には、肉体人間は大体、業想念があるから、なかなか、赦せないことも、愛せないことも多い。

だからまず、自らを赦し愛すことからはじめて、祈りと感謝行をしながら、赦しと愛を段階的に他に及ぼしていく。

こうした場合ならば、利害得失計算ではなく、できるだけ無理の生じない、段階的な他力修行のための、環境づくりと捉えることができる。

そう思うんですけどね。

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追記: 2024/04/18 13:09
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。