おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

589_ひしみー011

01 釈迦はいかなる存在か

小乗仏教は釈迦をどう見ているのか?

前回の続きです。

以下は、あくまでも私の個人的な独断と偏見であることをあらかじめご了承下さい。

大乗仏教は、お釈迦さんが説いた初期仏教を、唯物論では到底理解できない範囲まで、拡大・拡張させたお釈迦さんの教え、すなわち、新たな仏教だ。

ただし、小乗仏教のように、少数精鋭の出家修行者のエリートだけでなく、すべての人までをも広く救うための仏教となる。

大乗仏教のほとんど(全部?)が、お釈迦さんを起点に、その教えとして説かれている。

ただ、何せ唯物論の常識では到底理解できない、摩訶不思議で、奇妙奇天烈な内容を含むので、これを信奉する人、あるいは、信奉したい人にとっては、何かと具合が悪い。

なぜならば、ガチガチの唯物論者の人が身近にいて、その人を教化したいと思った場合に、荒唐無稽な内容を突かれたら、これを証明して納得させることはできないからだ。

あるいは、他の宗教を信奉する人を改宗させたいと思っても、唯物論者の場合と同じか、あるいはそれ以上に納得させることは難しくなるだろう。

他の宗教を信奉する人は、その人なりにまた違った摩訶不思議で奇妙奇天烈な内容を含んだ教えを信奉しているかもしれないからだ。

こうした場合には、信徒の側からすれば、いわば、信じるしかないので、こうした人を改宗しようとしたら、唯物論的に証明できない内容を含む宗教同士の張り合い、いわば、我の張り合いになってしまうからだ。

我の張り合いでは、他の宗教の信奉者を確実に打ち負かす(?)ことはできない。

これでは、大乗仏教を、普遍妥当性を持った宗教とするには程遠い。

そのように、考えたのではないか。

さらには、他宗の信奉者と対峙することがある場合に備えて(?)、揺るぎない信念を確保しておきたいとも思うだろう。

そして、何よりも、自らが信じる、あるいは信じたい、心の拠り所にするところの宗教に対する絶対の信頼が欲しい。

あるいは、絶対の信頼は得られていると無理矢理(?)でも自らに言い聞かせながら、信奉をしたい。

そのためには、どうしても、何が何でも、信奉したい宗教に対する鋼鉄のような信心を確立するための、とりあえずでもいいから(?)、絶対的な権威づけが必要である。

唯物論者が何と言って来ようが、他宗の人間が何と言って来ようが、唯物論よりはるか上の別次元に話を持っていってしまえば、何を言われても、暖簾に腕押しで話にならず、とりあえずは、信奉を保つことができるものと考えた(しかし、これでは、やはり、我の張り合いに収束するから、十分ではないと思う)。

だから、唯物論で考えたら、奇妙奇天烈で荒唐無稽な内容を含む大乗仏教は、他の宗教や哲学の教えに、その牙城を崩されないための体裁をどうしても、それなりに保つ必要に迫られる。

大乗仏教の信仰で奇跡が、例えば、観音様の信仰で奇跡が起きてそれなりの説得力が得られた場合があったとしても、それは、信仰する人(の過去世の因縁因果との兼ね合い)にもよるので、奇跡は恒常的に起きるとは限らない。

従って、奇跡だけをもって、自らの信仰の絶対の裏付けとすることはできない。こうした考えをとる場合には、奇跡は恒常的に、いわば、数学の公式のように起きなければならないからだ。

やはり、信じられるかどうかは別にして、理屈の上で、それなりの体裁を整えておくことがどうしても必要だ。

それには、お釈迦さんを、私達と同次元の存在ではない、もちろん、お弟子さん達よりもはるかに格上で、手が届かない絶対者に祭り上げておくことが必須となる。

お釈迦さんを、そうした絶対不可侵の崇高な存在として祭り上げておくためには、これまた、絶対なる権威を確立させておくことが必要だ。

ひろさんは、こうした背景から、あのように、やや強引な権威づけの話、すなわち、小乗仏教のお釈迦さん=肉体人間としての仏陀観では、外(唯物論者=仏教を信じない者、他宗の信奉者)にも、内(自分)にも、体裁を整えられない、説得力を得られない、と考えたのではないか。

それで、あのように書いていたのではないか、と個人的には考える。

以上は、ひろさんが後に書いていることにも関連するのだが、とりあえず、一読者としては、このように感じましたね。