おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

588_ひしみー010

01 釈迦はいかなる存在か

小乗仏教は釈迦をどう見ているのか?

前々回( 586_ひしみー008 ー ・大乗経典が描く釈迦 )で、ひろさんはお釈迦さんを、永遠の存在である宇宙仏または久遠実成の仏とする仏陀観をとる、つまり、お釈迦さんを特別扱いすることを見てきた。

ひろさんによると、小乗仏教仏陀観は、上記の大乗仏教仏陀観に対して、徹頭徹尾、人間としてのお釈迦さんだという。

お釈迦さんは、あくまでも人間であって、彼は天賦の才によってか、あるいは辛苦の努力の末にか、悟りを開いて仏陀になった。ひろさんは、その彼が説いた教えが仏教とだとするのが、小乗仏教の考え方だとしている。

もともと、仏陀サンスクリット語(古代インド語)のブッダの音訳で、真理に目覚めた人をいう。そして、この仏陀の省略形が仏となっている。

小乗仏教では、真理に目覚め、悟りを開いた者はすべて仏陀(=仏)であり、これは阿羅漢と同義なので、お釈迦さんだけが仏陀なのではなく、悟りを開いたお弟子さん達もすべて仏陀となる。

ひろさんは、お釈迦さんが小乗仏教のような人間ではダメだといっている。いくらお釈迦さんが類い稀なる天才でも、所詮は人間だから、たかが人間が説いた真理は絶対的な真理になり得ないとしている。そして、普通の人間では、普遍妥当的な真理の保証はできないかのようにいう。

さらに、お釈迦さんが、人間である以上、間違っていないとは言い切れないから、私達は仏教を信用できなくなる、とまで書いている。

ひろさんは、その根拠として、当時の人々はお釈迦さんの教えを歯牙にもかけない人々が多く、大抵のインド人はお釈迦さんを無視していて、その教えを受け入れた人は、ごくわずかだからとしている。

小乗仏教の、お釈迦さん観では、真理は、お釈迦さんの教えを受け入れた少数の人にとってのみとなるが、それでいいのか? と疑問まで投げかけている。

もしも、そうならば、すなわち、お釈迦さん=人間ならば、現代の我々にとって、お釈迦さんの教えは、ソクラテス孔子、カント、ニーチェの教えと同列の次元にあり、この中からどれを選ぶかは、我々の勝手次第であり、サイコロで優劣を決めてもいいようなことまで書いている(ひどい)。

そして、ひろさんは、小乗仏教のお釈迦さん=人間、の仏陀観だとどうしても、こうなる、と決めつけている・・・。

また、ケチつけになるが。

お釈迦さん=唯一無二の特別な仏陀(仮に、特別仏陀とする)、のようにしたからといって、果たしてそんなに権威が保てていた(る)と言えるのか?

ひろさんは、小乗仏教が人間としてのお釈迦さんに権威を求めるのがダメだのように書いているが、特別仏陀としたところで、そもそも、それほどの意義があったのか、今なお、権威が保てていると言えるのか。

権威があれば、たとえ仏教が無抵抗を旨とする宗教だとしても、他の宗教に掃討されることはなかったはずではないのか。

しかも、現にお釈迦さんの祖国インドでは、仏教はほとんどなくなってしまったのではないか。

特別仏陀の権威がありながら、これはどうしたことか。

現代の日本だって、すべてが仏教徒だとは、とても言えないのではないか。

これで、この状態で、果たしてお釈迦さんを特別扱いして、特別仏陀とした、権威を与えたことが、効を奏していると言えるのか。

あのお釈迦さんの生誕話にしてもそうだ。

あんな人間離れした特別な人間、超人としての特別仏陀の赤ん坊の生誕時を描いていても、その話を聞いた人に権威を感じさせる結果と言えるのだろうか、今の仏教の状況で。

あれは、両親が子供(中学生くらいまでか)に、「赤ちゃんはどうしてできるの?」そして、「赤ちゃんはどこから生まれてくるの?」の返答に窮する場合を想定して考え出した模範解答の一つのようにも思えるのだが。

そして、大変申し訳ないのだが、あの話を最初に知った時(もちろん、妊娠と出産の概要を知った後だったが)には、違和感しか覚えなかった。

以上は、お釈迦さんを特別扱いして、特別仏陀とした効果についてのケチつけ。

次は、内容のケチつけ。

ひろさんは、お釈迦さん=人間では、絶対に権威を保てない、と決めつけているように見える。

効果については、上記の通りだが、では、お釈迦さんが最後の旅路で、我が身の衰えを語り、重い腹下しを神通力で治さなかったのはなぜだ?

お釈迦さんほどの神通力があれば、治せたのではないか。

しかし、お釈迦さんは、あえてそうはしなかったのではないか。自分もお弟子さんや在家の人々と同じ肉体人間なんだよ、と病に苦しむさまを、あえて見せていたのではないか。

自らの身体が衰えることも、病気のことも、自分は神通力はあっても、あえて、自分は特別な人間ではない、皆さんと同じなんだよ、と示そうとしていたのではないか。

お釈迦さんの再晩年の姿からは、このように感じ取れるのではないか。

これは、結果的に、自分は特別仏陀ではない、阿羅漢と同列の仏陀であるといっていることになるのではないか。

ただ、悟りの深さが、お弟子さん達とそれなりに開きがかなりあるだけで、本質は変わらない、としているように思えるのだが。

お釈迦さんは、その最期付近の生きざまで、皆さんと変わらないんだよ、と示したと受け取るべきではないのか。

このように考えてくると、お釈迦さんを特別仏陀のように、異次元の存在に祭り上げる意味が、あまりそぐわないような気がするのだが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2021/11/10 00:05
②追記: 2021/11/11 00:02
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。