おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

595_ひしみー017

01 釈迦はいかなる存在か

大乗仏教から見た釈迦

前回( 594_ひしみー016 )の続きです。

前回書きませんでしたが、宗教の入り方には、以前書いたように、大まかに分けて 2 通りのものがあると考えられます。

1 つ目は、前回書いたようなご利益信仰、すなわち、何らかの叶えたい望み、学業でも、仕事でも、病気治しでも、この世で自分が幸福と思えることを、願いとして宗教にすがる、そうした信仰の仕方です。

2 つ目は、純粋に自分が人間として立派になりたいこと、人格を向上させること、神様と人間の関係を突き詰めて、正しい思われる生き方を求める努力をしていく信仰の仕方です。

私達は、神様のお命を頂いているところから、よほどの過去世での悪行三昧のようなことをして、判断力をくもらされて生まれつかない限りは、誰しもが何が良いことで、何が悪いことで、人としては本来どのようにあらねばならないか、を知っています。

わかっているんですよ。

これは、八正道のような理屈じゃないですよ。自然にそなわっているんです。何が正しいの判断もそうです。

これには学歴や知識や知能指数は無関係です。

こうした神様の分け命を頂いているところから、自然に何が人としてあるべきなのか、立派なことなのかは、生得的にわかっているんです。

そうした、感覚から立派な人格を目指して、自らを修養していく。

これが、 2 つ目の信仰の仕方です。

で、現代に当てはめて考えてみると、おそらく宗教に入るほとんどの人が、何かしらの病気や家庭内不和や苦しい生活やその他の諸々の苦労を何とかしたくて入る場合が多いと考えられます。

中には、過去世の想いと行い、すなわち、過去世の因縁が良くて、今生ではそこそこ恵まれた生活をされている方が、さらなる、心もちの修養や豊かな心を得たくて、宗教に入ることもあるかもしれません。

お釈迦さんの開いた仏教は、小乗仏教大乗仏教があります(厳密には小乗仏教のみになるのかもしれない)が、全体的にみると、どちらかというと、ひたむきで厳しい自力修行を元に、霊性の開発をして、最終的には悟りを開いて涅槃に至り、輪廻転生からの解脱を目指すものと言えると思います。

つまり、本質的には小乗仏教的な色合いが濃いものだと思うのです。

日本の禅宗である臨済宗曹洞宗での座禅観法を中心とした修行にしても、生半可なことでは、到底、悟れない厳しいものなので、これも色合いとしては大乗仏教でありながら、小乗仏教に近いように思います。

つまり。

この世的に救われたい、いい思いをしたい(?)というご利益信仰と、悟りを目指しながら修養・修行する信仰の 2 通りに大別できると思います。

ご利益信仰は、この世に何かしらの償うべき課題を背負って生を受ける私達には、救われたい、いい思いをしたい(?)というのは、ごくごく、自然な感情です。

肉体人間の本体が神様の分け命であるということは、真善美に悖らないのが本来なのですから、病争貧苦があれば、これは好ましいものではないからです。

なので、ご利益信仰も、信仰の仕方としては、ごく自然な成り行きで、宗教の入り方としてはアリなのですが、やはり、最終的には、 2 つ目の信仰のように、人格的な向上を伴って、悟りの方向に向かう、収斂(しゅうれん)されていくことが望ましいし、本来の信仰の仕方だと言えます。

いくら、ご利益信仰で苦しみを脱却できたとしても、人格的に立派にならなければダメだ、信仰としては本質的にはダメだということになります。

なぜならば、例えば、受験を成功させたいことのように、自分の努力もさることながら、何でもかんでも、神様のお力を借りて、願いを叶えようとしてばかりでは、人格的に立派にならないからです。

自分でできる限りの努力は尽くす。その上で、ご利益やご加護が頂ければありがたいし、仮にご利益を頂けなくても、これはこれで過去世の因縁との兼ね合いもあるためだろうから致し方のないこととして、感謝をしつつ、結果を甘んじて受け止める。

最悪なのは神様を自らの欲望のために利用する、自らの欲望を叶えたくて引きずりまわすことです。

神様は便利屋さんじゃありませんよ。そんな扱いをしてしまったら、おそらく大変なことになります。

何が成就しても、最終的には、自分のためにもなり、みんなのためにもなる、という形につながらなければ、神様のみ心に適うことにはならないからです。

ただ、自分の肉体にもとづく五欲を叶えるためだけになってしまったら、完全に道を踏み外してしまいます。

もっとも、こうした勝手な願いが仮に叶えられたとしても、神様のみ心に適う形に沿うように、何かしらの対価、場合によってはペナルティーを課されることになると思われます。

つまり、安易に欲望を叶えてもらいたくて、むやみやたらに神様を利用するような形をとると、ただでは済まなくなる、と考えられるのです。

因縁因果で考えれば、いい結果が今生か来世以降に巡って来るようにするためには、それなりの良い想いと行いを積まなければなりません。

天の蔵に宝を積まなければならないのです。

天の蔵に宝を積まないで、拝むだけで、宝だけ頂戴・・・。

ご利益信仰を履き違えると、こうした傲慢さを抱き、積むべきものを積まないで、宝ばかりを求め、結果として、借金を重ねるようになったり、ペナルティーを課される形になる恐れがあるのです。

だから、ご利益信仰でも、最初の内は救われたい一心でこうしたことまで気が回らないかもしれませんが、最終的には必ず、自らのためにもなり、人様のためにもなり、つまり、世のため、人のためになることにつながり、そして、自分としても人格が向上する、磨かれる。

ここまで来ないとダメだと思うのです。

従って、ご利益信仰でも、最終目標はあくまでも、人格の完成、そして、悟りや涅槃に至る道筋を目指すことが望ましいし、求められると思います。

このように考えてきた時に、ひろさんのようなお釈迦さんの特別仏陀としての位置づけは、あまり関係ないような気がするんですよねえ。

むしろ、大乗仏教にも色濃く名残を残す、人格の完成、人としての修養が、大事なんじゃないのかな、と。

まあ、あくまでも、仏教の初心者の感想ですけど。

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追記: 2021/11/17 19:11
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。