おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

594_ひしみー016

01 釈迦はいかなる存在か

大乗仏教から見た釈迦

あと、いくつか付け加えたいので少しだけ。

ひろさんは、明言はしていないが、あのように、お釈迦さんに絶対の権威を与えるということは、信仰している自分が、実は確固たる信念を持ち得ないでいる、この信仰でいいのか、と不安を持ちながら信仰している側面も、考慮の中に入れているのではないか、ということについてまずは書きます。

盲信とまでは言わないまでも、世の中には、どうしてこうしたものを信じるのかなあ、という信心に邁進する場合がある。

しかし、こうした人達は、実は本人もわからない(顕在意識ではわからない)過去世からの因縁によって、そうしたものに執着しているようになっているだけなのではないか。

ご本人が、自分の心を深く内省すれば、到底、良心との辻褄が合わなくなり、信仰が難しくなる場合も出てくるのではないか。

ご利益信仰というものがある。

・ご利益~ごりやく~神仏のめぐみ。ご利生(ごりしょう)。
(用例)ご利益がある。

いわば、この世で自らの利害得失計算がうまくいくような、悪く言えば、ご都合主義のような信仰である。

例えば、どんなに、宗祖さんにおかしなことがあっても、教団に問題があったとしても、信仰によって、苦しみ抜いていた病気から救われた、子宝を授かった、のように、この世では、まず、どうにもならないと思われていた不可抗力の壁を突破できた(と思えるような)経験があるとすれば、この宗教は絶対だ、私に幸福をもたらしてくれた、多少の問題には目をつぶって(?)、遮二無二、信仰をするしかない、といった形の人もいるのではないか。

実際は、そうしたご利益のように見える自分にとって都合がいいことも、信じきれないような教団に入ることも、上述のようにすべては過去世からの因縁で決まっていたことだとしても。

しかし、こうしたご利益もなかなかないとなれば、現代の(昔も)唯物論的な思考にとらわれている私達の大半は、なかなか、心からの確固たる信仰をすることは、本当は難しいのではないか。

どっぷりと自分を神様に任せきることができる人は、むしろ稀で、みんな不安を抱え、自問自答を繰り返しながら、信心している場合の方が多いのではないか。

これといった我欲にまみれ果てたというご利益がないのはともかくとしても、どうしても救ってもらいたい場合に、この世的なご利益がないのに、そうした信仰を続けるのは、難しい人が多いのではないか。

この世で自らに起きてくることは、いかなることでも、み仏が罪悪深重の凡夫の自分を救って下さるためのおはからいだ、良いことも悪いことも、すべてありがとうございます、という幼子のように素直な信心を持てるのは、浄土門妙好人と呼ばれる人達、すなわち、源左さんや才市さんや、宇右衛門さんのような敬虔な信仰者の人達ぐらいしかいないのではないか。

今、この世でのご利益が問題なのではない、今は苦労して大変な思いをしても、輪廻転生を通した自らの魂としての霊魂魄が立派なものになるように、神様(仏様)を信じて生きていくこと。

すなわち、霊性がかなり開発されて、さらに精進するように生きていくこと。

これは、大半の人にとって難しいことなのではないか。

一回一回の各人生、すなわち、輪廻転生を通した各人生に、それぞれに霊魂魄(以下、魂と略す)として学ぶべき課題が分けられているということは、裏を返せば、魂の鍛練は一回の人生、例えば、今生(今回の人生)だけで済むことではなくて、長い何回かの人生にかけて修めていく課題もあるのではないか。

そうなると、単純に一回の人生で、すべて自らに都合が良いことばかり起きて、ハイお仕舞い、解脱できて、輪廻転生は卒業ということは、滅多に、というか、絶対にならないのではないか。

なぜならば、後に見るように、たくさんの人を救い、教え導いたお釈迦さんでさえも、いくつもの過去世があったから。

私達よりも霊性が比較にならないほど上のレベルと思われるお釈迦さんでさえも、何回もの人生をかけて、霊性を向上させて、最終的にお釈迦さんとして生まれて、この世で解脱をして、輪廻転生を卒業した。

ということは、私達にもたくさんの輪廻転生を通した魂の鍛練(?)があるのは、当然で、致し方のないことになるのではないか。

今生だけで、自分にとって都合の良いことばかりで、人生を終えることは、まずは、不可能。

何らかの課題、すなわち、過去世で溜め込んであった病争貧苦として償うべき課題は、この世に生を受けた者は、誰しもが何かしら受けなければならない。

この世の人生は、基本的に修行なのだ・・・。

良いことばかりで済ましたくても、そうはいかないのが、この世での肉体人間としての人生なんだ・・・。

そんな時に、宗祖に絶対の信頼が置けない、権威がない、権威があるようにどうしても思い込めないようだと、信心を保つのが不安になるのではないか。

だから、とりあえずは、自らの信仰は宇宙の絶対真理から来ているもので、有無を言わさず疑う余地のないものだと、とりあえずは自分にいい聞かせながら、信仰をしていく。

そのためには、宗祖にも、その教えにも、宇宙の真理とつながるという、絶対の教条主義的な権威を与えておく必要がある。

ひろさんは、こうした観点からあのように言った側面もあるのではないか。

この世を思うがままに渡って行けるような、ご利益に満ちた生き方は、滅多にできることではない、まずはあり得ないことである。

だから、揺らぐ信仰、ぶれる信仰の足場をとりあえずは固めておきたい。

もちろん、他の宗教(他宗)や哲学に自らの信仰の牙城を揺らがされたり、崩されたりするような脆弱な基盤しかないようなものでは、ダメだ。

ひろさんはこのように考えたのではないか。

私は、お釈迦さんを特別の仏陀、いわば唯一無二の絶対の仏陀にすることに、固執するひろさんの言い分は、こんな側面もあるのではないか、と考えられるんですよ。

ひろさんご自身は、無意識なのかもしれないけれど。

長くなりましたので、ここで区切ります。

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①追記: 2021/11/16 00:45
②追記: 2021/11/16 00:59
③追記: 2021/11/16 01:01
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。