おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

596_ひしみー018

01 釈迦はいかなる存在か

大乗仏教から見た釈迦

前回( 595_ひしみー017 )の続きです。

あまり仏教に直接関係がない(?)ことをウダウダ書いても、読まれる方はウンザリするかもしれないので、この章( 01 釈迦はいかなる存在か )は、この回で区切りとします。

また一つ、ケチつけになってしまうんですけどね。

私達肉体人間は、太古の元々の神体から、霊体をまとい、幽体をまとい、さらに肉体をまとって、肉体人間となった。

そうして、地球さん開発のためと、同時に神様の世界をこの物質地球界に映し出す、地上天国化を目指すことになった。

その物質地球界を、個々の肉体を守りながら、有限の命を生きていく都合上、本来ならばなかった自己保存の本能を与えられた。

個々の肉体に分かれた当初は、同じ神様のお命を分けられた者同士の神様の子供としての兄弟姉妹の自他一体感があったものが、次第に、個々の肉体それ自体は別物なんだ、兄弟姉妹ではない、まったくの別者だ、と思うようになり自他一体感は、次第に薄れていくこととなった。

そして、自らの身を守りながら、各々の生活を確保するために、利害は対立するようになり、物質地球界の資源を争奪し合うようにもなっていった。

つまり、肉体としての自己と近しい者を中心とした利害得失計算による利益を最大化をはかるようになり、利害が対立する者は、排除すべき敵だ、とまで思うようになってきた。

こうなってしまうと、人間=肉体であり、個々の肉体人間は、あくまでも独立して、何ら本質的にはつながっていない者同士であり、相争う果てに、戦争にまでつながる可能性までもが出てくることになる。

幾多の輪廻転生を通して、このように習慣づけられてしまった私達肉体人間ではあるが、その本質は神様のお命を分け与えられた者同士であり、やはり、真善美を求める、愛を求める気持ちは、消え去ることはない。

どんなに、たくさんの積み重ねた過去世で、真善美に悖る悪い想いと行いをしてしまっていても、こうした本質は消し去ることはできないのだ。

信仰は、例えば、仏教なら悟りを開いて、涅槃に至るというのは、言い換えれば、自分の本質は神様(仏様)そのものであったと真に感得することであり、過去世から溜め込んであった悪い想いと行いをすべて浄め去って、安穏の境地に至ることである。

なぜならば、神様(仏様)の世界には、神様(仏様)には、一切の憂いや感情想念の乱れはなく、安らかな世界そのままが、開かれることだからだ。

肉体という悪い想いと行いを抱きやすい難条件(ハンディ)を背負いながら、神様(仏様)としての想いと行いを、この世においてあらわし得ること。

そうなれば、神様(仏様)の世界そのままに、自らのためにもなり、他人のためにもなり、すなわち、世のため人のためになる自由自在を、この世に置いてあらわし得ることになる。

従って、そこには当然に神様(仏様)の奇跡もあらわれることにもなる。

つまり。

これは、神様の世界から肉体まで下ろされて、また、神様の世界を、神様の実体を求めて、肉体から神体へと戻っていくことになる。

いわば、下位上達(?)のようになって、肉体にまで下ろされた形から、神様の実体にまで元に戻ろうとしている訳です。

肉体から神体まで、昇っていこうとしている訳です。

そうして、神様に生かされていることと、自らが肉体人間として生きていることが、完全に一つとなること。

これが目標な訳です。

そして、最終的には、世界平和の祈りのようなお浄めと良い想いと行いによって、別稿に書いたように、現界から神界まで往相で昇り、神界から現界まで還相で戻って来て光明を広めるとことが望ましいことになります。

しかしながら、ひろさんの展開するお話は、お釈迦さんを絶対不可侵な(?)唯一無二の特別な仏陀として祭り上げ、礼拝の対象として、ソクラテス孔子とは別格の(?)権威を与え、いわば、上意下達のように仏教を見ていこうとしているのです。

これは、話が逆にはなっていませんか?

流れも一方通行で、教条主義的。

そんな気がするんですけど。

まあ、やはり、これも仏教初心者の単なる一感想です。

お許し願います。