おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

644_ひしみー065

06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ

・政治からの誘惑を受けた釈迦

前回( 643_ひしみー064 )の続きです。

以下、また、いくつかに分けて書きます。

1.イエスさんとお釈迦さんの政治への関与のおさらい

ひろさんは、イエスさんとお釈迦さんの政治への関与を、それぞれ、神様の悪魔を通じたお試し(???)と、超破格の条件での大国への召し抱えという誘いを、はねのけたことをもって、反政治の原理になる、 2 人ともアナキズムを体現するアナキストだと言いたいようだ。

信仰を曲げず(?)、信念をぐらつかせない(?)がゆえに、あの人たちは偉い!としたいのかもしれない。

しかし、宗教は、神様と人間とのかかわり、もっと言えば、肉体人間の本質が神様の分け命であることを感得していくための道筋を示すものであり、教えである。

つまり、肉体人間としての自分が、神様の分け与えられた命を生きている、自分の本質は神様に他ならなかったのだ、と真実に感得するための教えが宗教だ。

それが個人個人で完成し、社会を構成し集う人々すべてに完成できれば、これこそ、まさに本物の神権政治が実現するはずである。

とは言うものの、個人レベルで悟れない人が大半である、現段階でのこの世( 2000 年以上の昔も同じ)では、こんなことは、到底、望めない。

実態は、夢のまた夢といったところだろう。

ならば、宗教者としては、はるか彼方の未来のこの世を見据えて、少しずつ霊性の開発の下地の環境づくりの種まきを、着実に地道にしておくより他はない。

直接的に政治に入り込んで、あれやこれや理想を実現しようにも、政治に携わる人々の霊性の水準に問題があり過ぎて、もっと言えば、業想念にまみれ過ぎていて、挫折してしまうのがオチだろう。

転輪聖王はあくまでも理想であり、仮にこのような人がいたとしても、本人と周囲の人々だけでは、やはり、挫折してしまうだろう。

そもそも、どんなにカリスマ性を持った人間がいたとしても、そうした人間が社会を改革することで理想世界か実現する可能性があったのは、はるか彼方の肉体人間が神様から降ろされた当初の時代ぐらいだったとしか思えないのですよ。

それほどまでに、私達一般的な社会を構成する肉体人間の霊性の開発は、過去世を通して積み重ねてしまった業想念の多さも相まって、まったくできていない。

民主主義にまでなって、一般的な社会の人々の境遇が徐々に改善されてきたとはいっても、いまだにその本質は変わらない。

絶対強権支配の本質には何ら変化はない。

ただ、支配の様相があからさまではなくなり、高度になって、巧妙に複雑化されたために、わかりにくくなっただけである。

そんな訳で、唯物論で肉体人間の世界を良くしよう、勧善懲悪のその場その場での改善だけで何とかなるというのは、きわめて甘い見通しのように思えて仕方がないのですよ。

肉体=人間なんだ、という肉体人間観に縛られている限り、そして、唯物論のものの見方に縛られている限り、個人個人の幸せ、もっと言えば、個人個人の五感にまつわる欲望を最大化させる呪縛から逃れることはできない。

肉体人間の本質が神様、すなわち、神様からすべてが始まっているのだから、神様の本質に立ち返らなければ、本当の神様の世界、安寧、安穏な世界は来ないのではありませんか。

それに、どんなにひどい政治が行われようとも、俺は知らねえよ、と無関係、無関心を貫くのは、やはり、ちょっと肉体人間の本質は神様であると教える宗教者らしくない、と思わざるを得ないんですよ。

とはいえ、武器でも、舌鋒でも、政治に関与すれば、間違いなく業想念を生じてしまい、争いの元をさらに加えて作り出すことにしかならないことには変わりがない。

だから、蔑(さげす)まされようと、何だろうと、祈りで対処する、そして、次に述べる、お釈迦さんの行ったきわめて消極的な形で関与するしか、やりようがないと思うんですけどね。

2.マガダ国のアジャータシャトル(阿闍世。あじゃせ)王のヴァッジ族に対する制服戦争の可否に問いかけについて、お釈迦さんが無視したとされている件について

読む人の仏教関係書籍の読み込みや、感覚にもよるのかもしれないが、以下のひろさんの記述しか読まなかった場合に、お釈迦さんは、この件についてはまったく無視、無関心・無関与と思われるかもしれない(改変・加筆あり)。

前略。
・・・ところで、仏教の基本スタンスは出世間だから、仏教者は政府の転覆運動も、支持する活動もしてはならない。
だが、民主主義の体制下では私達には投票権があるので、現政権の支持か不支持かを否応なしに意思表示をする形になっている。
棄権も当然意思表示に含まれるからだ。
だから、私達は出世間の基本スタンスを守ることはできない。
その場合、仏教者はどうすればよいか?
ご随意になされればよい、が釈迦の考えであったようだ。
それは「マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経。だいねつねはんぎょう)」を読めばわかる。
この冒頭に出てくるのが、マガダ国の阿闍世王(前出のビンビサーラ王の息子。提婆達多も絡んで大問題(父親のビンビサーラ王の幽閉と殺害)を起こしているのだがそれは省略する)が釈迦のところに大臣を派遣して「ヴァッジ族に対する制服戦争を起こしてもよいか」を問うたのに対して、釈迦はまったく答えない。戦争をやってもいいとも言わないし、戦争をやめよとも言わない。
まったくの無視である。
それが出世間をした人間のとるべき態度である。まさに「ご随意になされればよい」である。
後略。・・・

ここだけを読んだ場合に、お釈迦さんはあの件に関して無視しただけと思われるかもしれないが、実はそうではないのである。

私は元々はひろさんの師匠の中村元さんの「原始仏典」(ちくま学芸文庫)を読んでいて、さらにお釈迦さんの最後の旅路の詳細を知りたくて、ひろさんの「釈迦」(春秋社)などを買った経緯がある。

この中村さんの本を読むと、必ずしも絶対の無視とは言い切れない内容が書かれているのである(拙稿 169_原仏10ー1、170_原仏10ー2 参照 )。

お釈迦さんは、戦争をやれとも言わないし、戦争をするなとも言っていない。

確かに直接の戦争に関する言及を避けている。

わざわざ、弟子の阿難との対話を聞かせるという間接的な形をとってまで。

しかし、実質の内容は、あなたそんなことはおやめなさい、と言わんばかりの諭(さと)すような内容だったのだ。

だから、社会を構成する人間の霊性の開発がまだまだで、その水準が神権政治を行うためにはまったく問題にならない場合には、基本的に無関係・無関心・無干渉、すなわち、無視のノータッチが基本でも、必ずしもそんな杓子定規に徹することができるものではないよ、特に、仏教は本質的には非戦だよ、となるのではないだろうか。

過去の歴史の中には、戦いのために武器を持ったお坊さんもいた(織田信長に惨殺されてしまった)けれど、やはり、仏教の本質は違うのだ、と考えられる。

という訳で、やはり、社会にともに存在している、しかも、何らかのかかわりを持たなければならない因縁のある場合に、理屈通りに無関心・無関係・干渉という訳にはいかなくなると思われる。

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・様相~ようそう~物事のありさま・状態。
(用例)奇怪な様相。

・呪縛~じゅばく~まじないをかけて動けなくすること。転じて、心理的に束縛すること。
(用例)呪縛から解放される。

・舌鋒~ぜっぽう~(鋒はほこの先の意)とがったほこの先のように、鋭い弁舌。
(用例)舌鋒鋭くせまる。

・弁舌~べんぜつ~述べること。物の言い方。話ぶり。
(用例)弁舌さわやか。弁舌をふるう。

・蔑む~さげすむ~人を劣った者とみなしてばかにする。軽蔑する。見下す。
(用例)人に蔑まれる。

・杓子~しゃくし~飯・汁などをすくう道具。しゃもじ。

・杓子定規~しゃくしじょうぎ~(曲がっている杓子の柄(え)を定規として使う意から)一つの基準ですべてを決めようとする、応用や融通のきかないやり方・態度。また、そのさま。
(用例)杓子定規なやり方。杓子定規に考える。

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①追記: 2022/01/06 12:35
②追記: 2022/01/07 12:22
③追記: 2022/01/07 19:30
〜訂正内容~

上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。