おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

625_ひしみー047

05 人間の内側にある老・病・死

・老・病・死の問題を解決するための出家

前回( 624_ひしみー046 )同様、ひろさんの後の話の展開が個別的で長いので、ひとまず、四門出遊の話の概要を先に書いておく(今回は西門の死人の話と北門の沙門に感激して出家を決意する話)。

太子は、お城の
東門から出た時に、みすぼらしい老人を見て(老人はじめて見る?)ショックを受け、人間は老いることを認識し、遊楽をやめて引き返し、

数日後、
南門から出た時に、醜い病人を見てショックを受け、人間は病をするものだと認識し、遊楽をやめて引き返し、

また、数日後、
西門から出た時に、葬儀の行列(ひろさんはこのように推定している)を見て、人間は死ぬものだと認識し、遊楽をやめて引き返し、
(ここまでが中阿含経の柔軟経の回想)

さらに、数日後、
北門から出た時に、沙門(出家修行者)の清々しさに感動して出家を決意する。
(後世に加えられた四門出遊の伝説)
というお話が、いわゆる、四門出遊と呼ばれているもの。

今回は、人間の死という事実を認識して、その後、清々した沙門を見て出家を決意するまでの話。

お城を出るはじめに
東門で老人を見てショックを受け、遊楽の気持ちを失い宮殿に引き返し、
数日後、南門で病人を見てショックを受け、遊楽の気持ちを失い宮殿に引き返し、
また、数日後、太子は、浄飯王にすすめられて今度は西門から出る。

花園に向かうが、今度はそこに、やはり浄居天(じょうごてん)という高い地位の天人が死者に姿を変えた葬儀の行列を見て驚き、侍者(じしゃ)に「あれは何か?」と尋ねる。

侍者が答える。

「あれは死者です。
私達は、自分は生者だと思っています。
けれども、生というのは驕(おご)りなのです。
人間は常に死に向かって進行しつつある存在で、死の状態こそが人間の真実の姿なのです。」

そして、太子の回想の言葉。

「愚かな凡夫は、自ら死ぬもので、また、死を免れず、他人が死んだのを見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。
我もまた死ぬ者で、死を免れない。
自分こそ死ぬもので、同様に死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう。
ー このことは、己にはふさわしくないと言って。
私がこのように観察した時、生存時における生存の意気は、まったく消え失せてしまった。」

太子は、またまた遊楽の気持ちを失い、宮殿に引き返した。

さらに、数日後。

今度は、浄飯王のすすめで、北門から出た太子は沙門(出家修行者。ただし、バラモンではない。沙門はバラモンヴェーダ聖典の権威を認めない)の姿となった浄居天に出会った。

沙者の清々した姿に感激した太子は、自らも沙門となることを決意した。

太子は、老・病・死の問題に直面して、これを解決しようとして出家した。