おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

624_ひしみー046

05 人間の内側にある老・病・死

・自己のうちにある「病」

前回( 623_ひしみー045 )同様、ひろさんの後の話の展開が個別的で長いので、ひとまず、四門出遊の話の概要を先に書いておく(今回は南門の病の話)。

太子は、お城の
東門から出た時に、みすぼらしい老人を見て(老人をはじめて見る?)ショックを受け、人間は老いることを認識し、遊楽をやめて引き返し、

数日後、
南門から出た時に、醜い病人を見てショックを受け、人間は病をするものだと認識し、遊楽をやめて引き返し、

また、数日後、
西門から出た時に、葬儀の行列(ひろさんはこのように推定している)を見て、人間は死ぬものだと認識し、遊楽をやめて引き返し、
(ここまでが中阿含経の柔軟経の回想)

さらに、数日後、
北門から出た時に、沙門(出家修行者)の清々しさに感動して出家を決意する。
(後世に加えられた四門出遊の伝説)
というお話が、いわゆる、四門出遊と呼ばれているもの。

今回は、病の話。

お城を出るはじめに東門で老人を見てショックを受け、遊楽の気持ちを失い宮殿に引き返した太子は、浄飯王にすすめられて今度は南門から出る。

花園に向かうが、今度はそこに、やはり浄居天(じょうごてん)という高い地位の天人が姿を変えた醜い病人を見て驚き、侍者(じしゃ)に「あれは何者か?」と尋ねる。

侍者が答える。

「あれは病人です。
私達は、自分は健康だと思っています。
けれども、健康というのは驕(おご)りなのです。
人間は常に病に向かって進行しつつある存在で、病の状態こそが人間の真実の姿なのです。」

そして、太子の回想の言葉。

「愚かな凡夫は、自ら病むもので、また、病いを免れず、他人が病んでいるのを見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。
我もまた病む者で、病を免れない。
自分こそ病むもので、同様に病いを免れていないのに、他人が病んでいるのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう。
ー このことは、己にはふさわしくないと言って。
私がこのように観察した時、健康時における健康の意気は、まったく消え失せてしまった。」

太子は、老いと病を自らのものとして自覚し、健康を驕りと受けとめた。そして、遊楽の気持ちを失い、宮殿に戻った。