05 人間の内側にある老・病・死
・老・病・死こそ人間の真実の姿
ひろさんは、キリスト教と仏教を以下のように対比させる(改変などあり)。
すなわち、
キリスト教においては、(砂漠という厳しい)自然は死の原理であり、人間は神から賜った生命で、その自然と闘い続ける。人間は、死を免れない=死に勝てないが、それは問題ではない。闘った者には神は永遠の生命をあたえてくれるから、それを信じて闘えばよい。
それに対して、仏教は、自然は恵みである。(モンスーンのような)豊穣な自然は、人間に多くの恵みをもたらす。
人間は、死を免れない存在であり、死に向かって老い、病んでいく存在だ。
つまり、人間は老・病・死が人間の本来の姿であり、若さや健康はかりそめの幻影(イリュージョン)に過ぎないのである。
自然はその恵みによってそうして死にゆく人間を生かしてくれるのだから、人間は自然に感謝を捧げつつ、本来の死に向かって帰っていけばよい。
だとすると、現代日本の医療が闘病の思想に立脚しているのは、まことに馬鹿げたことと言わねばならぬ。闘病の医学はヘブライズムにこそふさわしい。負けてもいい。いや、必ず負けるのであるが、負けるために闘うのがヘブライズムである(この一節は文章はひろさんの原文のまま)。
しかし、仏教を代表とする東洋の思想では、老・病・死は人間が内包する、いわば内側にあるものだ。
となると、こうした東洋思想において人間が老・病・死と闘うことは、自分自身と闘うことになってしまうのである。
自分自身と闘う? これは愚かしいことではないのか?
患者は病気と仲良くすべきであり、闘ってはいけないのだ。
日本の医療は生半可に闘病の思想を受け入れたために、患者に自分自身を否定させて、闘うことをすすめてしまう。
無論、全部の医者がそうではないが、日本の医学が西洋医学の育ったヘブライズムの土壌を無視して、表面的な技術だけを学んだために、自分自身と闘っていることを忘れて、病気に勝とうとする。
これは悲劇だが、大部分の医者はそれに気づいていないのである。
まあ、医療の批判はこのぐらいにしておこう(原文まま)。
大事なことは、シッダールタ太子(お釈迦さん)が、人間の内側に老・病・死があることに気づいたことである。
人間の本来の姿は、老・病・死であって、若さや、健康や、生命は驕(おご)りである。
ところが、私達はこの人間の本来の姿、真実の姿を忘れ、若さ・健康・生命に執着を抱(いだ)いている。
いつまでも、若くありたい、健康でありたい、生きていたいと思っている。
この執着こそが、人間を迷わせ、狂わせてしまうのだ(このあと堂々巡りをぐちゃぐちゃと書いてあるので以下ははしょる)。
では、私達はどうすれば良いのか?
その解決をするために、シッダールタ太子は出家を決意したと伝説は伝えているが、これが四門出遊(しもんしゅつゆう)の伝説なのである。
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・豊穣~ほうじょう~穀物などが豊かに実ること。また、そのさま。豊作。
(用例)五穀豊穣。豊穣の秋。
・イリュージョン~幻影。幻想。幻覚。錯覚。
・内包~ないほう~①一つの概念の中に含まれる、事物が共通して持っている属性(意味・性質)の総称。←→外延。
②内部に含み持っていること。内に含んでいること。
(用例)危険を内包する。
ここでは、②の意。
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追記: 2021/12/20 20:03
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました(冒頭の章( 05 人間の内側にある老・病・死 )を書き忘れていたので、書き足しました)。