おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

531_仏言葉ー064 ー 今を生ききる

第 4 章 これから先がどうなるか不安

64.人生の時間を活用する

人間の寿命は短い。
立派な人はそれを軽んぜよ。
頭髪に火がついて燃えている人のように振る舞え。
死が来ないということはあり得ないからである。

(サンユッタ・ニカーヤ)

佐々木さんによると、(肉体)人間にはは死は免れないのだから、長く生きることが最高の幸せだという考えを捨てよ、ということだそうだ。

中村さんは、それ(寿命)を軽んぜよ、と訳しているが、佐々木さんは寿命のことなど放っておけ、と訳している。

佐々木さんは、人生は短いのだから、遊興や愛欲などにかまけていたら、死に臨んでは苦しみの元になるので、残されている時間は自らを高める(修行か、あるいはこれに準じる修養のことだと思われる)努力をすべきだ、としている。

要は、短い人生を、心を修めるために有用に使え、ということだろう。

これだけだと、ありきたりな話に見えるし、今までの内容でも重なるものがある( 528_仏言葉ー062 ー 涅槃を目指そう など)ので、この際なので、ご参考までに、この経文が含まれている節(第九節 寿命(一))と次の節もついでに概要をご紹介しよう。

上記経文は、悪魔・悪しき者とお釈迦さんの対話のある節(第九節 寿命(一))お釈迦さんの締めくくりとなる言葉である。

以下に、概要を示す。

中村元ブッダ 悪魔との対話
サンユッタ・ニカーヤ Ⅱ 岩波文庫(青版)
第Ⅳ篇 第一章 (改変あり)

第九節 寿命(一)

一 私はこのように聞いた。
ある時尊師は、王舎城の竹林園のうちの栗鼠飼養所にとどまっておられた。

二 その時尊師は修行僧達に告げられた。
ー「修行僧達よ」と。
それらの修行僧達は、尊師に向かって「尊いお方様!」と答えた。

三 尊師は次のように説かれた。
ー「修行僧達よ。
この人間の寿命は短い。
来世には行かねばならぬ。
善をなさねばならぬ。
清浄行を行わねばならぬ。
生まれた者が死なないということはあり得ない。
たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである」
と。

四 そこで悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。
近づいてから詩を以(もっ)て尊師に語りかけた。ー
「人間の寿命は長い。
立派な人はそれを軽んじない。
乳に飽いた赤子のように振る舞え。
死の来ることがないからである。」

五 尊師いわく、ー
「人間の寿命は短い。
立派な人はそれを軽んぜよ。
頭髪に火がついて燃えている人のように振る舞え。
死が来ないということはあり得ないからである。」

六 そこで悪魔・悪しき者は
「尊師は私のことを知っておられるのだ。
幸せな方は私のことを知っておられるのだ。」
と気づいて、
打ち萎(しお)れ、
憂いに沈み、
その場で消え失(う)せた。

第一〇節 寿命(二)

一 ある時尊師は王舎城にとどまっておられた。
そこで尊師は次のように言われた。ー
「修行僧達よ。
この人間の寿命は短い。
来世には行かねばならぬ。
善をなさねばならぬ。
清浄行を行わねばならぬ。
生まれた者が死なないということはあり得ない。
たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである。」
と。

四 そこで悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。
近づいてから詩を以て尊師に語りかけた。ー
「昼夜は過ぎ去らぬ。
生命はそこなわれない。
人の寿命は巡り迴転する。
ー車輪の輻がこしきのまわりを巡り迴転するように。(*)」
と。

三 尊師いわく、ー
「昼夜は行き過ぎ、
生命はそこなわれ、
人間の寿命は尽きる。
ー小川の水のように。」
と。

四 そこで悪魔・悪しき者は
「尊師は私のことを知っておられるのだ。
幸せな方は私のことを知っておられるのだ。」
と気づいて、
打ち萎(しお)れ、
憂いに沈み、
その場で消え失(う)せた。

第一章 おわる

教えの要目
「苦行と祭祀の実行」と、「象」と、「きよらかなもの」と、「わな」の二つ(わな(一)(二))と、「蛇」と、「眠る」と、「歓喜」と、「寿命」(寿命(一)(二))の二つとである。

以上の寿命(一)のお釈迦さんの悪魔・悪しき者への答えが、今回の経文になる。

お釈迦さんが、ここで言っているのは、

・肉体人間の寿命は短い(限りがある)。
・輪廻転生を経て皆に来世があるであろう。
・その今生(今回の人生)で限られた命を生きている間は、善行をせよ。
・清浄行(しょうじょうぎょう)という清らかな行いをせよ(初期仏教なのでお釈迦さんの教え全般ととらえてもよいだろう)。
・肉体人間としてこの世に生を受けたら、死は避けることができない。必ず、寿命を迎える。
・肉体人間の寿命はどんなに長くても 100 年とちょっとだ。

ということで、これを受けた悪魔・悪しき者は、以下のように言っている(と思われる)。

・いやいや、肉体人間の寿命は長いではないか。
・立派な人は長生きを重んじますよ。
・幼子が柔らかな布や枕の上に無心で横になり眠るように乳を飲んでいるように穏やかにゆったりとしていなさい(時間はあるんだ)。
・そんな簡単には死にませんよ。大丈夫、ゆっくりしていなさい。

これに対して、お釈迦さんは、さらに以下のように返す。

・いや、そんなことはない。肉体人間の寿命は短いのだ。いつ疫病が流行り病に倒れるか、いつ何の事故や災難で寿命を迎えるか、皆の(悟りを開いていない)者はわからないのだ。
だから、何の不可抗力のことが起こるかわからないのだから、長生きすることばかりに心を奪われたり、長生きこそが幸せだと考えるのは良くない。
・頭に巻いているターバンに炎が燃え上がっているように、常に緊急時だと思い、わが身を引き締めよ。
・寿命は必ず迎えるものだし、いつ来るかは(普通は)わからないのだ。これをよくよく心せよ。

という、お釈迦さんの答えで、悪魔が降参して去ったという話(大体、こんな感じだと思われる。幼子が乳を飲むくだりと頭にターバンを巻いているくだりは、中村さんの本の注釈を参考に書いている。なお、寿命(二)の方は、ご興味のある方はお手数ですみませんが、ご自身でお調べ下さい)。

つまり、肉体人間には、厳然として限りがあることと、その寿命を終えるのがいつかは(基本的に)不明だから、生きている時間を精一杯生かせ、ということですね。

なお、ここでは明言していませんが、おそらくは、暗に、今生の命を精一杯生ききれば、来世以降にも善行や清浄行の結果がつながるし、これは今生で悟りを開けなくても、来世以降には必ずプラスになるという意味合いも含まれている、と考えられます。

仮に、輪廻転生を前提とせずに人生を今生のみで考えても、輪廻転生を前提として来世以降をも含めて考えても、今の命を精一杯生ききることが大事だよ、とお釈迦さんはいいたかったのかもしれませんね。

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(*)輻~ふく~牛車の車輪の轂(こしき。牛車などの車軸を通す、車輪の中心の太い丸い部分)と外輪を結ぶ線状の棒。現代語ならスポーク。車の輻(や)。

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①追記: 2021/09/19 00:16
②追記: 2021/09/20 23:40
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。