07 禅定と苦行、そして中道
・真実の仏教者に苦行は不要
ちょっと、お釈迦さんの悟りへの道筋における(または悟りを目指す一般的な求道者(ぐどうしゃ)の求める)、苦行の意味合いと、その本質的によって来(きた)るところについてなど、2 回費(つい)やしてしまったので、改めて、ここから、前々々回( 650_ひしみー071 )からの続きを書くことにする。
その前に、前回( 652_ひしみー073 )の内容をひとまずおさらいしてから、続きに入る。
前回は、
( 649_ひしみー070 )の内容の、
苦行による神秘的な超能力の獲得も、
( 650_ひしみー071 )の内容の、
修行や苦行で、精神を解放して自由になることや精神力を高めることも、
双方ともに、
私達肉体人間の本質が神様の分けられたお命であるところから、
様々な肉体にまつわるとらわれを持つ
肉体人間でありながらも、
元の本質をあらわしたい、
元の本質にかえりたい、
それらは、半ば無意識的なそうした
思いの発露としての行動だ、
ということを書いた。
つまり、
肉体を得ていることで、
どんなに、
五感にまつわる各種の欲望にこだわり、
様々な欲望に惑わされているかのように見えたとしても、
その本体が、本質が神様の分け命であるところから、
各人の過去世からの因縁因果や、
守護の神霊さんの導き次第にもよるが、
いずれは必ず、
元の神様のように生きたい、
と思うようになる時が来る。
それが無意識的な修行や苦行にあらわれている、
ということです。
で、ひろさんの話の続きに戻る(改変あり。以下のすべての文章に同様)。
通常の宗教の修行
修行→苦行
なのに、なぜ、
お釈迦さんの修行
修行→禅定→苦行→中道
なのか、
中でも、
ここでは特に、
シッダールタ太子(お釈迦さん)が
出家をして沙門ガウタマになり、
なぜ最初に苦行ではなく、
2 人の禅定家に師事したのか、
についての続きです。
ここで、ひろさんは、
お釈迦さんは、
最初から苦行によって
悟りを得ることができないと
わかっていたから、
だとされる。
かなり前の話になってしまうが、
ひろさんは、
お釈迦さんの出家の動機が、
食物連鎖のむごさを感じる
あり方に対する疑問であり、
また、
老・病・死という抗うことのできない
肉体人間の普遍的なあり方に対する
解決策であった、
それらが、お釈迦さんの出家の動機であったから、
彼は苦行によっては悟りを得られないとわかっていた、
としている。
ちょっと、前二つ(食物連鎖と生老病死)が出家の動機となっているから、苦行では悟りが得られないと、繋げて結論づけるのは、意味不明でよくわからないんだけど・・・。
続けます。
というのは、ひろさんは、新興宗教の入信の 3 大動機は、病気平癒(へいゆ)、貧乏脱却、その他人間関係を含めた各種のトラブル解決、いわゆる、病・貧・争で、そのための問題解決の修行として思いつくのが、大抵、修行だからだ、としている。
こうした場合の修行は、やはり、お釈迦さんの苦行とまではいかなくても、何らかの形でわが身を責めるものだ、という。
しかし、お釈迦さんが求めたのは、病・貧・争の解決ではなかったので、苦行はダメだと思ったに違いない、としている。
→お釈迦さんが求めたのは生老病死の解決ではない(???)(だって出家の動機のうちの 1 つは生老病死だったんじゃないの?)
→だから、苦行では問題解決(生老病死の克服)にならない(?????)
うーん。
やはり、どうもしっくりこないというか、意味不明というか、ピンと来ないんですよねえ、個人的には。
悪いけど・・・。
正直言って、話がつながっていないとしか思えないので、理屈立ても、内容もよくわかりません。
続けます。
そのために、お釈迦さんは、最初の苦行を避けて、禅定(それも究極の)をあっさりと習得(マスター)したが、それでも納得するまでには至らなかった。
ただ、禅定は捨てることなく、お釈迦さんの教えの中核をなすものとして残したことは重要(大事)だとされている。
そこでひろさんが思うのは、お釈迦さんは、禅定をしたのは方向性は正しく、ほとんど求めるものは得られていたが、詰めの一歩が足りない、ということらしい。
そこで、次に苦行となるのだが、これは最後の詰めの一歩を、苦行によって克服しようとしたことだ、とされる。
要は、ひろさんは、お釈迦さんは、ある程度苦行の無意味さは知っていたのだが、他に適当なものが思い浮かばないから(???)、仕方なく(???)苦行をやったと考えるべきだ(???)、としている。
ひろさんは、このように考えると、お釈迦さんが、後に苦行を放棄したことも理解できる、という。
ダメなのだ(=悟りを開くまで至らない)と予想できていたからこそ、やがて行う苦行を中断できたのだ(?????)、と。
うーん。何とも言えませんねえ・・・。
お釈迦さんは、半ば無意識的に(?)、まずは苦行をすっ飛ばして、当時の通常のセオリーから外れて、まずは禅定を類いまれなる優秀さで修めた。
そして、苦行では悟りを得られないとわかりながら、あえて苦行におもむいた。
じゃあ、肉体人間の死は論外としても(=悟りを開く前に体を痛めつけ過ぎて死んでしまっては意味がなくなるから)、苦行の適正な区切りはどうやって判断するの?
どこまで苦行をすればいいのかを、どうやって決めるの?
適当でもいいの?
死にそうになったら、やめればいいや。
それだけですか?
もしも、死なない程度に苦行しても、体の衰弱が激しく死なないとは限らないんじゃないですか?
ましてや、2500 年以上前ですよ。
当時の苦行者は、苦行のやり過ぎで死ぬことはなかったんですか、絶対に?
それに、何か、苦行を中止する区切りを、えらく恣意的に決められそうにも思うんですけど・・・。
お釈迦さんは、完全な断食より、さらに厳しい少食断食をして、骨と皮のように痩(や)せてしまったのだから、死にそうになったんじゃないですか?
体毛組織も損傷するくらい凄まじい苦行だったみたいだし( 651_ひしみー072 )。
ここで、ひろさんは、苦行の打ち切り(?)の訳(?)を、後付けの理由として、「苦行の麻薬性」に求めている。
これは、苦行をした者は、その麻薬性・習慣性に毒されて、中毒症状を起こして、やめることができなくなるからだそうだ。
だから、お釈迦さんが、苦行をやめることができたのは、彼が苦行にのめり込んでいなかったからであり、苦行の麻薬性に毒されていなかったからだ、としている。
ひろさんによると、この点においては、ひろさんは、多くの仏教者と意見を違(たが)えるそうだ。
通常は、お釈迦さんは苦行をしたからこそ悟りを開くことができたと考える。彼が苦行を放棄して中道を歩んだのも、苦行あってこそだととらえるとされる。
しかし、ひろさんは、そうではない、という。そのような主張をする人は、真面目な修行者であり、宗派の定める修行をきちんとこなし、自信と誇りを持った信念の人ではあるが、その人ご自身が苦行の麻薬性に中毒症状を起こしているという。
ひろさんは、この信念が困る、ひろさんご自身はそうした他人様の信念には干渉することはしないが、そうした信念を仏教の名において語ることが許せないとお書きになっている。
ひろさんは、仏教の根本精神は、中道であり、苦行ではない、という。
宗教的な天才であった、お釈迦さんであればこそ、苦行をしても、その麻薬性に毒されることがなかったのだ、という。
彼のような宗教的な天才でなければ、苦行の麻薬性・習慣性に中毒症状を起こし、苦行から脱することはできなくなるだろう、という。
よって、私達は苦行をやってはならないそうだ。
真の仏教者は、中道を歩む者。
ひろさんは、このようにお考えとのこと。
中途半端ですみませんが、また、かなり長くなってしまったので、ここで区切ります。
ご了承願います。
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・求道~ぐどう~仏教語~仏(=お釈迦さんのこと)の教えや悟りを求めること。
・平癒~へいゆ~病気がなおること。全快。