06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ
前回( 636_ひしみー058 )、ひろさんの本の順番通りに書くかどうか迷ったが、やはり、ここまでに長いこと順番通りにしてきたので、気を取り直して、順繰りに行くことにする。
ただ、前回の続きになるが、勝手な概論を書いておきたい。
ひろさんのこの後々の話にもあるのだが、政治家と宗教者は別だ、と分けることで、少なくとも体勢よりにはすり寄らないノータッチの形をとりたいとお考えのように見える。
しかし、宗教、そして宗教者は、本来なら人間のより良きあり方を求めるものだ。
ならば、この人間がより集まった組織にも当然人間としてのより良きあり方を反映した形が、理想としては出来上がらなければおかしいはずである。
個人や小規模な宗教組織を政治から隔絶することは、こうした理屈からすれば、おかしいと言わなければならないんじゃないですか。
イエスさんは神の言葉を伝達することが仕事だと言い、お釈迦さんは、制服戦争に対する問いかけに決して答えなかった。
個人的に見ると、イエスさんは神のみ心のままにが最優先ということで、お釈迦さんの場合は因縁因果と、人々の霊性の開発具合を踏まえての判断のような気がしますけどね。
宗教は絶対に政治に無縁だ、とは言い切れないはずですよ。
個人でも組織でも、そこに人間の生活がある限り、そこに必ず生き方が生じてくるのだから。
ただ、古(いにしえ)の時代から現代にかけてのような人間の霊性では、とても神様としての本質をあらわしたような人々がより集まって行われるはずの神性政治にはほど遠いものしか出来上がらないから、宗教と政治を分離しておかざるを得ないということなんじゃないですか。
過去の歴史を見ても、宗教(や思想)の名の下に、どれだけの悲劇や支配が繰り返されてきたかに、それが示されてしまっているから。
だって、人間のより良きあり方・生き方を求めるはずの宗教が、結果的に唯物論の強権支配や従属の手段に使われてしまっては、本末転倒じゃないですか。
で、雑談(すみませんね)はこんなところで、ひろさんの本に戻ります。
・悪魔から誘惑されたイエス
イエスが公的な宣教をする前に、荒れ野で悪魔にされたという 3 つの誘惑のうちの 1 つをひろさんは取り上げている(「新約聖書」の「マタイによる福音書」(4)。適宜かなりの改変あり。以下、その他の文章もすべて同様)。
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導きかれて荒れ野に行かれた。
そして 40 日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」
この悪魔の第 1 の誘惑に対してイエスは(「旧約聖書」の「申命記」(8) にある)以下のような言葉で応じた。
イエスはお答えになった。
「人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る 1 つ 1 つの言葉で生きる」
と書いてある。
ひろさんは、この応答は実に見事だ、感心する、感心せざるを得ないとお書きになっている。
ひろさんは、これを文字通りに解釈すると断食後だからさぞ腹が空いただろう、石をパンに変えて食べなさい、では即物的(下世話という意味でしょうね)だから、飢える者へ与えるパンと話を意訳している(解釈し直している)が。
ひろさんによると、このイエスの返答は、自分の仕事は神の言葉を伝えることで、パンを与えることではないとの考えによっているとされている。
しかし、大衆は言うだろう。
「何を言っているんだ。
パンがなければ今人が飢え死にするかもしれないんだぞ。
お前はこの人達に死ねと言うのか?
お前は冷酷だ。
宗教家失格だ。」
と。
ひろさんは、こうしたものが大衆の意見だと言い、大衆とは悪魔そのものだ、としている。
ひろさんは、そんな大衆に向かって、イエスに成り代わって、以下のように言いたいそうだ。
そもそもにして、植える人間をつくるのは政治であり、パンを求めて泣き叫ぶ者をつくるのも政治だ。
政治とは、どんな時代であろうと、どんな形態であろうと、一部の人間に奉仕して残りの人間を泣かせる。
国民全員を幸福にする政治なんてあり得ない。
なぜならば、すでに述べたように(前々回( 635_ひしみー057 )、ひろさんの例示が不適切だったので、人間の欲望の満足度水準が他者比較で動くために、他人の不幸によって幸福感を感じることを書いたが、これを指している)、人は他人が不幸になることによってしか(?)、自らが幸福になれないからだ。
だから、政治は貧しい者から奪い、金持ちに与える。いや、逆か。奪われた者が貧しくなり、与えられた者が金持ちになる。それが政治だ(この一節は原文のまま)。
それゆえ、パンを求めて泣き叫ぶ者をつくったのが政治であれば、パンを与えるのは政治のやらなければならない仕事のはずだ。
宗教は、政治に奉仕する必要はない。
従って、イエスは、ここで、政治との決別を宣言した、とされている。
悪魔よ!
私は政治のお手伝い、ないしは尻拭いはしない。
私は宗教者である。
宗教者であれば、宗教らしい道(?)を行く。
すなわち、神の言葉を人々に伝える、それが私の仕事だ。
イエスはそう言ったのである。
とされているのだが・・・。
やはり、この人々の霊性の段階と神様のみ心から、(神の言葉として、今すぐに石をパンに変えて餓えた人々を救え、と特段に指示されない限りは)今は、石をパンに変えない、と言っているようにしか、取りようがない気がしますね。
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①追記: 2022/01/02 06:05
②追記: 2022/01/02 06:15
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を訂正しました。