07 禅定と苦行、そして中道
・テクニックだけでの禅定ではだめ
適当にいく。
ひろさんによると、禅定は仏教における三学の一つでこれなくしては仏教はあり得ないから、沙門ガウタマ(お釈迦さん)が、アーラーダ仙、ウドラカ仙に師事したことは幸いだ、とのこと。
というのも、歴史に仮定は禁物なのだそうだが、お釈迦さんが、両師に師事せず禅定を修めることがなければ、おそらく、お釈迦さんは悟りを開いて仏陀になることはできなかったと考えられるからだそうだ。
ただ、問題は禅定が単なるテクニックになってしまうことで、仏教には、他に戒学と慧学がなければならないからだそうだ。
つまり、テクニックだけで、無所有処定や非想非非想処定でいくら高い境地に達することができても、禅定を終えたとたんに、凡人に戻るのではダメで、人格まで高尚にならなければ意義がない、意味をなさない、ということらしい。
ひろさんは、お釈迦さんが 2 人の下を去ったのは、このような理由だとお考えのようだ。
で、だからこそ、お釈迦さんは、禅定に加えて、戒学と慧学を見つけたということらしい。
禅定は、戒学と慧学によって補完されるべきものだとのこと。
戒律は、人間らしい生き方(人として本来あるべき生き方のことでしょう)を教え、その戒律を守れる人が禅定をすれば、悟りの智慧である、本物の智慧を得ることができるということだそうだ。
定慧一等はそうした意味だそうだ。
まあ、ともかく、お釈迦さんは、悟りを開くことに向けてこうして段階を踏んできた、ということでしょうね。
それから、ひろさんは、注意書きをしている。
この本(ひろさちや著 釈迦 春秋社)が出版されたのは、2011 年 1 月 なので、今から約 10 年ほど前(東日本大震災の少し前)だが、その当時は癒しがブームだったようだ(昨今の癒しブームのように書かれているから)。
ひろさんは、癒しは、テクニックだけの禅定と同じで、問題の解決にはならないことをあげている。
ゆえに、仏教は癒しではない、と認識すべきということらしい。
具体的には、こうしたことらしい(勝手に意訳させてもらう)。
心が深く傷ついた、借金がある。
だからといって、気をまぎらわせても、ちょっと時間が立てば、やはり、厳然とした深く傷ついた心と借金は残ったままだ。
場合によっては、時間が経って再び傷ついた心と向き合うと、さらに痛手が深くなるかもしれない。借金は時間が経っても返済できなければ利息が加算されてしまう。
つまり、問題の解決になっていないどころか、却(かえ)って傷口が広がってしまう場合までもがあるのだ。
さらに、癒しで気をまぎらわせたところで、それではいたちごっこになってしまい、深い傷心や借金という問題は置き去りのままだ。やはり、傷口がさらに広がるだけにしかならない。
要するに、癒しは、あくまでも代償行為であり、問題を根本から解決する手段にはなり得ない、ということ。
つまり、ひろさんは、仏教は決して代償行為といったものではないよ、人間の生き方に、心のあり方に、根本的な指針を与えるものだよ、と言いたかったと思われる。
(追伸)定慧一等については、自分なりには調べたのですが、よくわからなかったので、申し訳ありませんが、お知りになりたい方は、ご自身でお調べ下さりますようお願い申し上げます。すみませんが、ご了承願います。