おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

647_ひしみー068

07 禅定と苦行、そして中道

・ウドラカ仙に師事した沙門ガウタマ

アーラーダ仙の下を去った沙門ガウタマ(お釈迦さん)は、次にウドラカ仙に師事した。

この経緯をひろさんは、おおよそ、以下のように分析している(私が勝手に意訳・省略・縮小させてもらう)。

お釈迦さんは、アーラーダ仙に師事して禅定そのものがダメだと判断したのではなく、指導者がアーラーダ仙だから、自らが求めるものが得られなかっただけで、違う師匠なら禅定でも自分の求めるものが得られる可能性がある、と判断して師匠を変えたのだろう、と。

ウドラカ仙は、125 才とされるが、ひろさんは、アーラーダ仙もウドラカ仙も相当な年齢で、120 才や 125 才というのは、誇張表現であり、ウドラカ仙の方が年上だったくらいに受けとればよい、としている。

ウドラカ仙はお釈迦さんに、「非想非非想処定」を教えた。

「非想非非想処」は、アーラーダ仙の教えた「無所有処」よりも一段上の境地だそうだ。

無所有処は、無念無想の境地だが、私達はこの「何も思わない(非想)」を思ってしまうので、これさえも否定しなければならない。これが非非想であるが、何も思わないということを思ってもダメなので、それは「非非非想」になるはずたが、それはいくら繰り返しても同じなので、「非想非非想」に落ち着くようだ。

この「非想非非想処」の境地に到達できる禅定が「非想非非想処定」とされる。なお、この境地は、禅定によって到達できる最高の境地とされているそうだ。

で、お釈迦さんは、このテクニックもすぐにマスターしてしまったらしい。だから、ウドラカ仙もアーラーダ仙と同じように、驚いただけではなくて、自らの教団を託そうとするが、お釈迦さんはこのウドラカ仙の申し出も辞退してしまう。

やはり、何か満足できなかったらしい。

その時の言葉は前回(アーラーダ仙の申し出の断り)と同じものが、マッジマ・ニカーヤに出ているそうだ(改変あり)。

すなわち、以下の通り。

この教えは厭離(おんり)に導かず、
離欲に導かず、
(煩悩の)止滅に導かず、
寂静に導かず、
智慧に導かず、
正覚に導かず、
涅槃に導かない。
ただ非想非非想処(*)に達するのみである。

そして、お釈迦さんは、ウドラカ仙の下も去って行った。

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(*)アーラーダ仙の時は、無所有所処だった。この示す境地だけが異なる。

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①追記: 2022/01/10 01:35
②追記: 2022/01/10 12:20
③追記: 2022/01/17 20:27
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。