おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

512_仏言葉ー046 ー 煩悩と想い

第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない

46.心を弄ぶもの

今回も、前回に続き、スッタニパータになる。同じく中村さんの訳を引用する(改変あり)。

貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。
好き嫌いと身の毛のよだつことは、自身から生ずる。
諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、
ーあたかも子供らが烏を投げ捨てるように。

(二七一)

佐々木さんは、カラスを投げ捨てるのが当時のインドの子供達の遊びの一種だったのではないか、と推定している。

だから、この経文のたとえは、カラスの足を縛って、投げておもちゃにしている残酷な遊びのたとえではないか、としている。

そうやって、煩悩が自分の心を蝕んでいくものとして解釈されているようだ。

肉体人間の運命を決めるのは、個々の肉体人間の抱く想いである。

佐々木さんは、心としているものは、肉体人間の想いである。

肉体人間は、その本体が神様の分け命であるから、本来ならば、真善美に悖る想いと行いはなさないのが本質である。

ただ、この粗い波動の物質世界の地球さんを神様の分け命そのままをあらわした人間の住まうべきところとして開発していくために、肉体を得て生きていく都合上、自己保存の本能を与えられたゆえに、肉体がわかれていることも相まって、本来あったはずの自他一体感がかなりの程度失われてしまい、自らを中心とする近しい者だけの利害得失計算に狂奔することとなってしまった。

天から天降ってきて、いつの頃からこうなってしまったかはわからないが、次第にそのエゴに固まった生き方が、お釈迦さんのいらした 2,500 年前はもとより、もっとずっと古くからから続いているという訳だ。

現代の生活は、確かに、便利になり、快適にはなった。特に、日本の新幹線や車の静かさや快適さ、トイレにいたってはその便利で快適な装備はおそらく世界に並ぶものがないほどだ。

しかし、経済発展や資源開発とは引き換えに自然は破壊され、経済格差は広がり、残念ながら、世界の人々は自然と調和した安穏とは程遠い状態にある。

前々回( 510_仏言葉ー044 ー 中身を充実させる )のにあるように、肉体人間は、裸のままでは、あのようにきわめて動物的な側面を持つ存在なのだ。

そうした肉体人間の個々を中心として利害得失をはかる想いが、神様のみ心から離れて乱される、佐々木さんの言い方なら心が弄ばれることになるのである。

肉体人間の行く末の鍵を握るのは、その抱く想いだ。

想いがすべてを決めている。

過去世からの想いとその実行としての行いの集積が、今生での境遇のかなりを決め、今生での想いと行いを加えて、来世以降がかなりの程度、決まって来るからだ。

この想いは、今生のものよりも、記憶にはない自らのいくつもの過去世のものが、今生に大きな影響を及ぼすことになっている。

今生で、巡り合わせる、良いことも、悪いことも、そのかなりの部分が過去世のものが、返ってきていることが多いという、唯物論の考え方でほぼ埋め尽くされた私達には、きわめて納得し難く、ある意味で、非常に理不尽なものとなっている。

私達は、良いことや、嬉しいこと、すなわち、肉体人間は、自分に都合のいいことだけは、難なく受け入れる。

過去世の想いや行いが、結果的に功徳を積み重ねたことになり、輪廻転生を通して、良いもの、嬉しいもの、楽しいものとして返ってきても、まったく問題はないし、大歓迎となるのである(よほどの奇特な人でない限りは)。

しかし、悪いことや、悲しいこと、つらいこと、苦しいことは、納得し難いし、受け入れ難いのが肉体人間なのだ。

煩悩は五感を元にして生じる各種の満たされない飽くなき欲望が、五感に快い刺激を与えることは大歓迎だが、そうでないものは忌み嫌うのが、習性だからだ。

ましてや、これが今生で何のいわれもない、身に覚えもないことならなおさらである。

過去世の因縁を元としてその償いとして起きてくる、受け入れ難い悪いことや嫌なことは、その原因を作った自分の過去世の想いと行いの記憶が消されているために、その償いを受ける正当な理由がわからないからだ。

個人個人の容姿や運命が、なぜに千差万別以上に多岐に分かれ、一つとして完全に同一のものがないのか。

似通ったものは、多々あっても、必ず峻別できるように分かれている。

それはなぜか?

すべては、肉体人間として、過去世から抱いてきた想いに起因するからである。

肉体人間の抱く想いは、きわめて精妙で、素早く変わる。

よほどの修行を積んでいないと、まともな精神統一は、まずはできない。

この想いを、過去世からのものをも含めて、完全に浄め去って、神様のみ心に帰一することができた時に、はじめて完全な安心立命、安穏の境地に至ることができる。

各種の修行も、座禅観法も、つまるところは、こうした安穏の地平にたどり着き、涅槃に至り、輪廻転生の苦しみ(=主として修行となる過去世で作った悪い因縁の清算)から、解脱するために、行うもの。

だから、想いを平らに整えること、浄めることは、人生に重い意義を持つと言える。

現代ならば、やはり、無理のない形での霊性の開発はしていくべきだ、そうすることが望ましい、となる。

とは言うものの。

こうしたことは、神様が理に適うことをなさる、そして、そのおつくりになった因縁因果の法則が、きちんと機能していることを大前提にしている。

そして、肉体人間の大元、本質は神様の分け命である分霊であり、本来は真善美に悖らないことを大前提にしている。

自分勝手なこと、おかしなこと、ひどいことや、残虐なことは、すべて、肉体人間として神様を離れた想いが作り出したものが、輪廻転生を通して清算されるためにあらわれてくるためのものなのだ、と。

しかし。

そう思いたくても、なかなかそうは思えない現実がある。

あらゆるこの世でのあらわれが、過去世の因縁のこの世で時を経て消えてゆく姿、つまり、清算されていく姿だとは思えない、納得できないものがあるのである。

過去の権力者を見るがいい。

権力者になれる、そうした能力や環境に生まれつく、ということは、それに見合うだけの過去世の良き想いと行いの積み重ねのある人間(霊魂魄)だ、と本来ならばなっているはずである。

しかし。

権力者には男性が圧倒的に多いが、一体何をしてきたのか。

たくさんの者に力づくで服従を強い、武器を入手するために人さえも売り飛ばし、財や権力は、集め放題、使い放題をやってきたのではないのか。

跡継ぎ問題の対処がいい例だ。跡継ぎが必要だからと、側室などを数えきれないほど抱え、組織化までする。

組織の維持、社会秩序の維持を体のいい建前として、個人レベルからは明らかに外れまくったデタラメなことをしてきたのである

おとしだね、ウン十人。

権力者はこうしたことを恒例としてやってきたのである。

要するに、権力でも何でも、やりたい放題、したい放題にして、欲望のおもむくまま、勝手放題にしてきたのが、権力者の典型的な有り様ではないのか(もちろん、物事には例外があるので、清廉潔白な権力者も中にはいたのかもしれない。ただ、こうした人は権力者の地位につくまでの間に排斥されてしまう可能性がきわめて高い)。

かつてのテレビ時代劇の水戸黄門なんかは明らかに作り物だ。

あれは、要は、権力者は、ちゃんと自制心があるよ、普通の人まで、ちゃんと尊重して慮り、大事にするよ、という刷り込みをするためのドラマだろう(なお、水戸学と明治維新のつながりについては SM さんの分析が詳しい。 SM さんはもうとっくにブログをやめてしまっているかもしれないが)。

一般的な社会階層の人々と権力者の信頼関係を結ぶ、夢物語、つまり、ファンタジーなのだ。

あの物語を企画した人は、当時の社会秩序を安定したものとして、経済発展をさせることを目論んでいたのではないか、とさえ勘繰りたくなるほどである。

そうした夢のような、信頼関係があるなら、権力者に多少の常軌を逸したわがまま勝手をする部分があっても、まあ、許容してやるか、となれるからだ。

そこには、自分も条件さえ整えば、権力者のようにしたい、なりたいという欲求も多少は絡んでいるだろう。

しかし。

こんな歴史ばかり繰り返してきて、本当に神様の世界があらわれてくるのだろうか。

世界中の人口からすれば、ごくわずかであろう祈り人達の願いが、本当に叶う時が、未来にあらわれてくるのだろうか。

肉体へのとらわれをすべて放ち、肉体人間観を脱したとしても、やはり、肉体人間の人々それぞれが、心から笑顔で称え合うことができるような世界があらわれてくる日がやがては来るのか。

答えがわかってしまったら、つまらない、修行しない、努力しない、となるから、簡単には安心立命できないようになっているのかもしれないが、それにしても、と思うのである。

ドラゴンボールの悟空(サイヤ人名はカカロット)のセリフではないけれど、人生はやっぱり修行なのか、と。