おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

667_ひしみー088

前回( 666_ひしみー087 )の続きです。

解脱についてお話しましょう。

私がよくいうんですが、仙人のように神通自在になって、姿が消えてどこにでも飛んで歩けるような力を持っていても、本当に解脱していないと、正覚を得ないんです。

仏様の境地、神様と一体にならないんです。

どういうことかといいますとネ、自分と神様との間に隔(へだ)たりがあれば、それは本当に解脱していないということになるんです。

あらわれている自分の想いがスッカリ無くなって、神様からそのまま流れてくる、いつでもそのまま流れて来ているという、そういう形にならないと本当の解脱じゃないんです。

だから、解脱即正覚というんですね。

何にもとらわれがない、想いが何にも乱れない、乱れる想いもないんです。

一挙手一投足が自然法爾(じねんほうに)に神様の方からやらされている、ということが、自分のやっていることと一つになる。

観るものと観られるものが一つになる。思うことと思わされることが一つになっていく。

そういうのを解脱しているというのです。

ところが、一生懸命行(ぎょう)をやった、修行した仙人みたいな形の人、行者のような形の人の中には、それは正覚を得た人もありますよ。役行者(えんのぎょうじゃ)のような人もいるんだからね。

役行者という人は、山から山へ渡り歩いて、修行に修行を重ねた人で、はじめは観音様をまつって祈っていた。ところが、観音様にも依存しちゃダメだ、と観音像を谷に捨ててしまって、自分の念力だけで、ついに形が消えちゃうんですね。

屍化仙(しげせん)といいまして、屍(しかはばね)を残さないで、いわゆる肉体を消してしまって、肉体がそのまま霊化しちゃった人なんです。自分の力でネ。それほど凄い人です。役行者ばかりではなく、その弟子に随分屍化仙がいるんです。

しかし、それだけでは解脱したとはいえないんです。肉体がなくなっただけで解脱したということはない。

自分というものが神様の一つの光の流れだ、ということが本当に心の底からわかりきらないと、解脱したことにはならないんですよ。

分けられた自分と神様(の命)が分かれていたら、解脱にはならないんです。

いくら神通力があって、人の心が全部わかっても、ここから姿を消して遠隔地へ飛んで行けるとしても、水の上を歩けたとしても、岩を何も使わずに動かせたとしても、山を動かせたとしても、地震を起こせたとしても、雨を降らせたとしても、それだけでは本当に解脱したとはいえないんですよ。

それはなぜかというと、奇蹟というもの、自分の力というものにとらわれているからです。

だから仙人などというのは、一つの行の方法がありましてネ、それによっていろいろな神通力を出す訳です。

ところが、それにとらわれている。とらわれているからその範疇(はんちゅう)でないもの、離れたものとは上手く交流ができないんですよ。

この世の宗教者で立派な人であっても、普通の人とのつきあいができなかったりする場合がある。

自分だけは高いところに行っちゃうから、この地球界に住んでいながら、地球界の人とはまるで交渉ができないような立場になってしまう場合もあるんです。

孤高(ここう)、つまり、自分だけが一人高くそびえ立ってしまうと、他との釣り合いがとれないから、他とのつきあいができなくなってしまう、日常の社会のつきあいができないような立場になる人がある。

それは解脱していないんです。

大聖は街に隠れ、小聖は山に籠(こも)るで、大きな聖人というものは、町にいてちゃんと仕事をしているというんですね。

それはなぜかというと、自分がどんなに高い地位にいても、平気で貧しい人とでも話すことができるし、年寄りとも話すことができるし、誰とでも、いつでも心が交換できるような自由な心になることが、宗教の極意なんですよ。

どの世界に住んでも、例えば地獄に住もうと、霊界に住もうと、神界に住もうと、どこに住もうと、自由でとらわれがない、という心にならなければ、本当の解脱という訳にはいかないんです。

一つの固まった行をしなきゃ淋(さび)しいような、行をしていなきゃ自分が頼りないような、それじゃあ解脱していませんね。

何をしていなくたって、どうしたって、自由自在にならなければいけないのだ、だけれども、そこへ行くのが大変だ。

そこで私は、あらゆる想い、悟ったという想いも、ダメだという想いも、相手が悪いという想いも、自分が悪いという想いも、失敗したという行いも、すべて消えてゆく姿なんだというんです。

この世にあらわれて、どんなに偉そうに見えたって、偉くなさそうに見えたって、そんなものはどっちにせよ、消えてゆく姿。

あるものは何かというと、宇宙神の光が流れてきている。流れてそのまま生かされている。

生かされていることと生きていることが、まったく一つになっている境涯(きょうがい)、そういう境涯が一番尊い境涯だ。

だから、その他のあらゆるものはみんな消えてゆく姿なんだ、ということなんですね。それでふんわりしていればいい。そのまま生きていればいい。

「そのまま」とどこの宗教でもよくいうけれども、その「そのまま」がなかなかわからない。

「そのまま」というのは、現象界のあらゆる出来事にとらわれない。とらわれてもすぐに放せる。「消えてゆく姿!」とパッと放せる。そういう心になることが一番の悟りなんですよ。

そこへ行くんですよ。宇宙人というのは、そういう境涯なんです。神様の心と自分達のやっていることがまったく一つになっている。それで神様をとても信じているし、わかっているんです。神様のみ心によって自分達が仕事をしているんだ、ということをハッキリ知っている。それで、自分達の想いと神様の想いとが一つになってスーッと降りてくる。そういうのが宇宙人なんです。そのようにやがて地球界もすべてなるんです。霊体になってしまうのと同じですね。

すべての修行はそうなるためのものであって、神通力があろうが、能力があろうが、それはこの世だけのことであります。

だから、解脱した境地から出てくる光、力というものは、それは素晴らしいし、本当の意味の神通力ですね。

そうならなきゃいけないし、やがてみんなそうなるんです。

都合により、ここで区切ります。
ご了承願います。

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・正覚~しょうがく~仏教語~完全な悟り。仏の悟り。

・自然~じねん~おのずからそうであること。天然のままであること。自然(しぜん)。

自然法爾~じねんほうに~仏教語~自分の力を捨て、如来にょらいの絶対他力に身を任せること。自分を捨てて、仏の力に任せきること。また、あるがままの姿形であること。

浄土真宗の教えで、万物は、如来の示すままであり、それが真理であるということ。「自然」は、本来そうであること。「法爾」は、法則にまかせていること。「自然」を「しぜん」と読まない。

如来~にょらい~仏教語~仏の美称。真理の体現者としての仏。

・修験~しゅげん~仏教語~①修験者の略。
修験道の略。

・修験者~しゅげんじゃ~仏教語~修験道を修行する者。山伏。

修験道~しゅげんどう~仏教語~山林静寂の地で修行して、呪法を修め、霊験を得る仏教の一派。

・呪法~じゅほう~呪文を唱えて呪う法。呪術。

・呪術~じゅじゅつ~神霊など超自然的な力に働きかけて、種々の現象を起こそうとする行為。まじない。

・霊験~れいげん~神仏の不思議な力のあらわれ。神仏の不思議な感応。祈りの効き目。ご利益(ごりやく)。れいけん。
(用例)霊験あらたか。

・範疇~はんちゅう~①同一性質のものがすべて含まれる部類。部門。範囲。カテゴリー。
(用例)美的範疇。
②(哲学用語)実在するもの、または思惟を分類する、最も普遍的・根本的な形式。
ここでは、①の意。

・孤高~ここう~ただ一人世俗とかけ離れて、高い理想をいだいていること。
(用例)孤高を維持する。孤高の人

・大聖~たいせい~非常に特の高い聖人。

・小聖~こひじり~あまり高位(高い地位)でない僧。普通の僧。

・極意~ごくい~学問・武道・芸能などで、その道を極めた人だけが体得できる深い境地。奥義(おうぎ)。
(用例)剣道の極意。

・境涯~きょうがい~この世に生きていく上で、その人が置かれている立場・環境。身の上。境遇。
(用例)不幸な境涯。

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追記: 2022/02/22 05:11
〜訂正内容〜

本文を訂正しました。