おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

674_ひしみー095

08 天魔よ、汝は破れたり

・経典はガウタマの迷いを語っている

前回( 673_ひしみー094 )の続きです。

以下は私の独断と偏見なので、普通の仏教にしか興味のない方は飛ばして(=省いて)下さい。

中道。

ひろさんのお書きになっていた中道の意味はおおよそ次の通り。

中道とは、互いに矛盾・対立する二つの極端な立場(仏教語で二辺)のいずれからも離れて自由な立場で生きることである。

苦行は自由ではない。当時の苦行は修行者の標準だったから、苦行をする者は、そのルールに則る必要が出てくる。これから離れることが中道。

他方、苦行の放棄だけでも、中道にはならない。苦行を放棄して快楽に耽るような極端さからも離れなければならない。

それが、不苦不楽の道となる。

これ見てどう思いますか?

わかったような、わかんないような、訳のわからない話に見えませんか。

ある程度の修行(=それなりの苦行と理解しても差し支えないだろう)は必要だし、禅定も必要なことになっている。

お釈迦さんの修行は、
修行→禅定→苦行→中道
のような道筋をたどっているからだ。

そして、ひろさんによると、仏教は、戒学・定学・慧学の 3 つが重要で、これらが揃わないと、仏教にはならないそうだ。

戒学は、戒律を守ること。
定学は、禅定を修めること。
慧学は、悟りの智慧を得ること。

二辺に片寄らないと言えば聞こえはいい(?)が、その二辺以外の幅はかなり大きく、きわめて大雑把すぎやしませんか?

二辺に片寄らない。

あっそう。

じゃあ、どの辺で決めうちするのが正しいの?

なぜ、それをもっと具体的に示さないの?

なぜこんなことを言うのかというと。

八正道は、別段、「八正道」である必要はなく、場合によれば「七正道」でも「九正道」でも「十正道」でもよく、八つの項目は無作為に選ばれているし、八正道は、本来は渾然一体な人間の想いと行いを不必要に箱詰めにして事細かな話をしていると思われるからだ( 569_仏言葉ー100 の補足、570_仏言葉ー100 の補足2 )。

八正道ではあんな細かな話をしているくせに(?)、何ですか、この中道のあまりの大雑把さは?と感じてしまうのですよ。

八正道と中道では、あまりにも、バランスというか、理屈の濃度というかが違い過ぎる。

ひろさんは苦行の麻薬性を避けるためのようなことをお書きになっていたが、やはり、どの程度の修行(苦行)までが必要かの明言はなされていない。

戒学・定学・慧学の 3 つを修めること。

もちろん、こうして決められた修行に励み、五戒をはじめとした戒律を守ること。

苦行の麻薬性を避けると言っても、より具体的な指標についてはまったく解説が省かれていて、ないじゃないですか。

だから。

一般的な仏教の本やひろさんは、暗黙の前提としているのかもしれないが、せめてこのぐらいには、説明してくれないと、仏教概論のバランス(?)がとれていないような気がするんだけどなあ・・・。

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追記: 2022/06/09 06:30 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。