692_ひしみー113
08 天魔よ、汝は破れたり
・釈迦仏の誕生
前回( 691_ひしみー112 )の続きです。
以下は、私の独断と偏見で、一般的な仏教に興味のある人にとっては、きわめて不愉快な内容となるので、一般的な仏教にしか興味がない人は飛ばして(省略して=お読みにならないで)下さい。
だいぶ前に、中村さんの原始仏典のところで書いたのだが( 247_原仏15ー1 )、お釈迦さんの呼び方があまりにもありすぎる。
多過ぎる。
門外漢のズブの素人から言わせてもらえば、ハッキリ言って無駄だ。
無駄としか思えない。
この項目( ・釈迦仏の誕生 )でも、ひろさんも、大乗仏教にからめて、お釈迦さんの呼び方について、あれやこれやとその幅広い学識を用いてお書きになっている。
なぜ、無駄に思うのか、煩瑣に思うのか、というと。
仏教の宗派がいくつにも分かれてしまい、しかも、互いに譲り合い融合に向けた感じがまったくしない。
しかも、お釈迦さん亡き後の後世に作られた経典も、悟りを開けず、従って、六神通のような超能力がない私達には、到底学び切れない、膨大な分量になってしまっている。(*)
さらに、仏教それ自体が世界的に見て縮小してしまっている宗教になっているように見える。
それなのに、たった 1 人の開祖の名前だけでも、何をぐたぐだと余計なことをやっているの?と感じて仕方がないんですよ。
学ばなければならない内容が多く、しかも、難行道としてして実践が不可能な行いも多い。
五井先生のお話( 668_ひしみー089 )ではないけれど、ちょっとやそっとのことでは、体得も含めて、到底、簡単に習得できる内容とは思えない。
このような状況下で、ごく普通に私達にできることは、経典や文献やこれに関する書籍から、お釈迦さんの生き方や考え方を学び、その良いと思われるところを生活に活かすようにしていくことくらいしかない。
その経典や文献でさえも、同じ内容が元になっているはずなのに、内容が幾多にも分かれてしまい、煩わしくて仕方がない。
今まで読んできた中村さんのご本でも、ひろさんのご本でも、内容を確定できず、分かれていたところがいくつもあった。
六神通のような超能力がない私達が、仏教を学ぶためには、もっと仏教自体の体系を簡潔にして、内容を絞り込むべきだ、と思えて仕方がない。
それが、端的にあらわれているのが、たくさんのお釈迦さんの名前の使い分けに思えるんですよ。
私も中村さんの原始仏典について書いていた時には、ひろさんと同じように釈迦としていたが、今はできる限り、お釈迦さんに統一表記するようにしている。
私は、お釈迦さんの偉さは、その生き方にあると思う。
梵天という神様の説得にほだされて、人々の教化を決めた後、その寿命の許す限り(悟りを開いてすぐに涅槃には入らないことや、仏陀は一劫この世にとどまることができる云々の話は、ここでは除外する)、いわば、自らの人生を人々に捧げ尽くしたとも言える訳です。
35 才から 80 才まで、45 年間もの長きにわたって。
なので、いくら特別な人物は敬称を略すことが多いとしても、個人的には釈迦とするのは、やはり、改めるべきだと考えて、お釈迦さんに変えた次第です。
以上は、ズブの素人の愚痴です。
申し訳ありませんでした。
次回から、ひろさんのご本の内容に戻ります。
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(*)私は、こうした文句を以前に書いたことかあるので、罪滅ぼしのつもりで、大蔵経の第 1 巻を買った( 137_贖罪 )。
実物を見ればわかるけど、ああした見るだけでもめまいがしてくるような難解な字句がビッシリと詰まった何百ページにもわたる大部の本が、何十巻(冊)もあるんですよ。