693_ひしみー114
08 天魔よ、汝は破れたり
・釈迦仏の誕生
前回( 692_ひしみー113 )の続きです。
B.C. (紀元前) 531 年 12 月 8 日、明けの明星(金星)が東の空に見える頃、尼連禅河のほとりのブッダガヤーの地の 1 本の菩提樹の下に偉大なる仏陀が出現した。
以前見てきたひろさんの大乗仏教の仏陀観では、宇宙から遣わされた人間でありながら、人間ではない存在だから、この仏陀の誕生表現は理屈的にはおかしいことになる。
しかし、ひろさんによると、お釈迦さんは最初から仏陀であったが、私達の前には、赤ん坊として、シッダールタ太子として、沙門ガウタマとして、姿をあらわして、35 才の時に正真正銘の仏陀の姿を取ったと見ることができるとする。
そう見るのが大乗仏教だから、B.C. (紀元前) 531 年 12 月 8 日、菩提樹下に仏陀が誕生されたとされる。
何だかわかったような、わかんないような、よくわかんないですね。
次行きます。
お釈迦さんはこうして仏陀となったのだから、では何とお呼びすればいいか、と大体、以下のように書いておられる(改変あり)。
「仏陀」と呼べばいい、あるいは「如来」でもいい。さらに「世尊」と呼んでもいい。「如来」も「世尊」も仏陀の別称である。
だが、それらは固有名詞であって固有名詞ではない。ずっと後世になると、仏陀は釈迦仏だけではなく、過去にも多数の仏陀が出現すると考えられるようになった。また、宇宙空間のあちこちに仏国土があり、そこに多数の仏陀が存在するように考えられるようになった。日本人によく知られている阿弥陀仏、は他の仏国土である極楽世界においでになられる仏陀だ。もちろん、仏陀といって他の仏陀と間違えられるおそれはないのだが、それでも固有名詞で呼びたいのであれば、「釈迦仏」、「釈迦世尊」とお呼びすればいい。また、「釈迦世尊」を略して「釈尊」でしてもいい。
あるいは、端的に「釈迦」と呼んでもいいだろう。
「釈迦」の呼称には尊呼が含まれていないから、呼び捨てにするのは失礼だという意見もある。だが、尊称・呼称が問題になるのは生きている人間に対してである。釈迦は仏陀であるから人間を超越した存在だ。むしろ敬称をつけないほうが(つけたっていいですが・・・)、その仏陀性をよく表現できると思う。
そうした訳で、我々は、以後は、「釈迦」「釈迦仏」「釈迦世尊」「釈尊」「仏陀」「仏」「世尊」という呼称を時と場合に応じて使うことにする。とりわけ、「釈迦」を多用するつもりである。
では、次の問題は、釈迦は何を悟ったか?である。しかし、私達はせっかく呼称を「沙門ガウタマ」から「釈迦」に変えたのであるから、同時に章も改めようではないか・・・。
つまり、ひろさんのこの部分だけでも、お釈迦さんの呼称は以下の 7 つがあることになる。
中村さんの原始仏典を扱った、247_原仏15ー1 では、以下の 6 つ。
・世尊(釈迦の尊称)
・釈尊(釈迦の尊称)
・釈迦牟尼(しゃかむに。釈尊の尊称)
・仏陀(ぶっだ。煩悩を超越し真理を悟った者。釈迦を指すことが多い)
・尊者(①上流の人。身分の高い人。②目上の人。③知徳の備わった人・僧。ここでは、③の意。)
・他で出てきた尊師(字引載っておらず。あの宗教事件のためと思われる)
私のような知識不足のズブのド素人には、こうした使い分けの意義がわからない。
以上で、第 8 章( 08 天魔よ、汝は破れたり )を終わります。
次回から、第 9 章( 09 梵天による懇請 )になります。