おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

600_ひしみー022

02 釈迦仏の誕生

兜率天(とそつてん)から六牙(ろくげ)の白象(びゃくぞう)になって降りて来た釈迦

適当にまとめる。

ひろさんによると(改変、意訳、省略などあり)。

大いなる宇宙意思が凝結して一つの生命体となり、これが輪廻転生を繰り返して、最終的にお釈迦さんになった。

そして、そのお釈迦さんは、もはや輪廻を続けない。仏陀(=仏)となり、輪廻の輪から脱却したからだ。

これを仏教語で解脱(げだつ)という。

お釈迦さんは、仏陀となることによって、この世界への執着をやめて、輪廻から解脱した存在なのである。

そして、その仏になる前の存在は、菩薩(ぼさつ。菩提薩埵(ぼだいさった)の略)とされる。ゆえに、お釈迦さんから我々まで、輪廻をするから(お釈迦さんは解脱したが)菩薩といえる。

ただ、菩薩は原義的には「悟りを求める人々」なので、ひろさんは、仏教の信者ではない者までは菩薩とはできないだろう、としている。

大いなる宇宙意思が凝結した生命体は菩薩として輪廻転生を続け、最終的に釈迦仏となって我々に大いなる宇宙意思を教え、輪廻の世界から消滅した。

これが大乗仏教が見るお釈迦さんの本質であり、お釈迦さんは人間であって人間ではない存在とされる。

で、このお釈迦さんとして生まれたことに関して伝説がある。

お釈迦さんは、この世に生まれる前に、菩薩としての最後の生を兜率天で過ごしたことになっている。

インドでは、世界を三界、すなわち、
・欲界~欲望にとらわれた生物の住む世界
・色界~欲望は超越したが、物質的条件にとらわれた生物の住む世界
・無色界~欲望も物質的条件も超越した、純粋精神の世界
に分けて捉える。

兜率天は、欲界における天界で、それほど高くない天界とされる。

お釈迦さんは、その兜率天に生を受け、自らが生まれるのに相応(ふさわ)しい場所を探した。もちろん、両親も選ぶ。

そこで、彼は釈迦国(シャーキャ)を選び、両親として浄飯王(じょうぼんのう。シュッドーダナ)と摩耶夫人(まやぶにん。マーヤー)を選んだ。

そして、お釈迦さんは、ある日に、六牙の白象に姿を変えて兜率天を出発、人間の世界に降りて行った。

そして、釈迦国の首都カピラヴァストゥの宮殿で、静かに眠りについている摩耶夫人の右脇からそっと体内に入り、こうして摩耶夫人は受胎した。

ついでだから、復習になるが、お釈迦さんの生誕時の描写もあげておく(今度は、全容をご紹介します。以前に、580_ひしみー002 で書いた時は、あまりの内容に正直キレ気味だったので、全容を書く気にはなれなかった)。

時は春の四月八日。
ルンビニーの苑(その)は花盛りである。
摩耶夫人は里帰りの旅にあった。
あれはもう十年以上も昔である。
彼女はコーリヤ国から釈迦国に嫁ぎ、釈迦国の浄飯王の妃(きさき)となった。
その嫁ぎの日に旅した道を、今逆方向に歩んでいる。
初産のための里帰りである。
初の出産は妻の実家でするといった風習が、古代のインドにもあったらしい。
その旅の途中のルンビニーの苑で、一行は小休止をとる。
沐浴(もくよく)を終えた摩耶夫人が池のほとりを散策している。
風が頬(ほお)に心地よかった。
摩耶夫人は無憂樹(むうじゅ。アショーカ)の花を一枝手折らんとした。
その時 ー
彼女の右脇を破って、一人の男児が出生した。
その男児こそ、浄飯王の長子であり、釈迦国の太子であり、後に悟りを開いて仏陀となる人物である。
生まれ出た男児をしっかりとうけとめるべく、地上には忽然(こつぜん)として七茎の蓮(はす)の花が咲き出る。
男児はその上にすっくと立つ。
そして、ゆっくりと、着実に、東に向かって七歩を行く。
一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、六歩、七歩。
それは獅子が密林を行けるがごとくであった。
七歩目、彼は立ち止まる。
右手を上げて天を指し、
左手は地を指し、
りんりんと響き渡る声でもって宣言した。
あめがうえ、
あめがした、
われにまされる聖者なし。

これが、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と呼ばれる誕生偈で、お釈迦さんの産声だとされる。

ひろさんによると、これらの伝説は大乗仏教になってから作られたものではないとされる。

すでに小乗仏教の段階、すなわち、「スッタニパータ(ブッダのことば)」や「テーラガーター(仏弟子の告白)」といった経典に、こうした記述が残されているからだそうだ。

しかし。

この伝説にしろ、キリスト教のマリアの処女懐胎にしろ、何とも言いようがない。

マリアを処女とするのが誤訳だ何だなんていう話もあるし、話に尾ひれがつけばつくほど解釈も分かれる。

白象の話は、霊体としてはどうなのか知らないが、こうしたおとぎ話のような出生の仕方が、そして分かれた解釈による議論が、個人の信仰に、個人の霊性の開発に一体何の関係があるんですか。

何の意味があるんですか。

しかも、話が増えれば増えるほど解釈も分かれ、余分な手間を増やして、霊性の開発からは遠ざかるんですよ。

おまけに、お釈迦さんの懐胎時の描写も、出生時の描写も、裏読みをすると、あまり芳しくない解釈をすることが可能になるんです。

仮にこれらのお話が創作だったとしたら、その意図を事細かに作者さんに伺ってみたいよ。

まあ、そんなことできっこないけど。

私には、浄土門妙好人の宇右衛門さんの話は、心に染み入るような気持ちがしましたが、これらの奇跡のようなお話を読んでも、まったくそんな気持ちにはならなかったんですよ。

うるさくてすみませんけどね、私は、頭が悪いのか、品性が下劣なのか、これらのお話のありがたみが、まったく理解できないんですよ。

私は思う。

架空のきらびやかな奇跡の物語が好きな人は、これまでの人生で、あまりつらい思いをしてこなかったのではないかと。

何気ない、当たり前のささやかな日常の風景がいかにありがたいことであったのかに、思いを馳せたことがないのではないかと。

当たり前のことが失われてみないと、本当のありがたみはわからないのではないかと。

~~~~~

・沐浴~もくよく~髪や体を洗い清めること。

・長子~ちょうし~その夫婦の最初の子。特に長男。

・太子~たいし~皇位を継承する皇子。皇太子。

・忽然~こつぜん~たちまち。にわかに。突然。忽焉(こつえん)。
(用例)忽然と消え去る。

天上天下唯我独尊~てんじょうてんげゆいがどくそん~天地間(=この世)に自分より尊いものはないの意で、釈迦が生まれた時に言ったという語。
(参考)「天下」は、「てんが」とも読む。

・誕生偈~これはお釈迦さんの誕生についての描写を偈(げ。サンスクリット語(古代インド語)でガーター)の形の経文として用いられものを指している。

偈は、仏典での仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえを韻文の形式で述べたもの。

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①追記: 2021/11/22 00:07
②追記: 2021/11/22 12:05
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

なお、②は、前略としておいた摩耶夫人の出産のための里帰りの内容をほぼすべて書き足したのと、(これまでも何回も書いてはきたが)偈についての若干の解説をつけ足した。