おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

712_ひしみー133

09 梵天による懇請

・苦行による悟りと中道による悟りの違い

前回( 711_ひしみー132 )の続きです。

前回、お釈迦さんの伝道を決意するにいたった動機を、独自の神様観(といっても五井先生の著作から学んで想定した神様観ですが)の立場からとらえました。

まあ、結果として、他の一般的な宗教観や既存のお釈迦さんの伝道の決意にいたるお話とは、かなり違ったものとなったかもしれません。

しかし、梵天様に伝道を懇請されたにせよ、どうも話がすっきりしないし、わかりにくい。

今読んでいる、ひろさんのご本(ひろさちや著「釈迦」(春秋社))を読んでも、そのように感じます。

前回のような宗教観、
すなわち、
肉体人間は、神様の分けられたお命を本体とした、そのお命を頂いているからこそ、有機的生命体として生きていける(=神様に生かされている)し、
ということは、
私達個人個人には、それぞれに果たすべき神様から与えられた天命を授かってこの世に送り出されている訳(この世に生まれることそれ自体が簡単ではないことについてはこのブログ ( おぶなより ) でも既に何回か触れてきた。だから、どんな人でも何らかの役割を担わされて、必要があってこの世に生まれてきたとなる訳)だし、
霊魂魄の霊として神様の分けられたお命を頂いているから、魂魄だけを頂くの他の一般的な動物とは異なり、知恵と創造力を授かっているし、
従って、
この世のありとあらゆる生きとし生けるものを調和させるべく、本来ならば、気高く生きていかなければならない存在である、
とするならば。

肉体人間の本質を神様の分けられたお命とするならば、
肉体人間は神様の子供であり、その観点からすれば、誰も彼もが神様の子供である兄弟姉妹、愛し合い、尊重し合い、苦しんでいれば助け合うのが、肉体人間の本当のあるべき姿だ、
となります。

肉体人間となり、自己保存の本能を与えられ、輪廻転生を繰り返し、どんなに利己主義に走るようになってしまったとしても。

各々の過去世で、織り成してしまった神様のみ心に悖った想いと行い(=業想念)のために、どんなに敵対的な関係として、この世にあらわれているとしても。

悟りを開けない一般的な私達から見て、どんなにこの世が不平等、不均衡や争いに満ちているように見えたとしても。

上記のように肉体人間の本質をとらえる限り、やはり、どんな人でも、その本質においては、神様の分けられたお命を宿す子供としての兄弟姉妹となる同胞だから、愛し合い、尊重し合い、助け合い、支え合うのが、本来のあるべき姿だ、ということになります。

だから、自分だけが悟れば、ハイおしまい、とはならないはずなのです。

私は、このように考えた方(ほう)が、梵天様の懇請にしろ、だいぶ前に扱った、中村元さんの原始仏典(ちくま学芸文庫)にあった「神々の喜び」の項目(P.072~)に書かれている話も、個人的には理解しやすいように思うのです。

神々の喜びとアシタ仙人の話は、「スッタニパータ」には以下のように出ています(いくつかの経文を統一表記するために岩波文庫版を用いる。読みやすさを考え、適宜、句読点の追加や、漢字化やひらがな化や、改行などの改変をしている)。

六七九) 喜び楽しんでいて清らかな衣をまとう三十人の神々の群と帝釈天(たいしゃくてん)とが、恭(うやうや)しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息の時に見た。

六八十) 心喜び踊り上がっている神々を見て、ここに仙人は恭しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
どうした訳で彼らは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

六八一) たとえ阿修羅(あしゅら)との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗(ま)けたときにも、そのように身の毛の振い立つほど喜ぶことはありませんでした。
どんな稀(まれ)な出来事を見て神々は喜んでいるのですか?

六八二) かれらは叫び、歌い、楽器を奏(かな)で、手を打ち、踊っています。
須弥山(しゅみせん)の頂(いただき)に住まわれるあなたがたに、私(わたくし)はお尋ねします。
尊き方よ、私の疑いを速(すみ)やかに除いて下さい。」

六八三) (神々は答えて言った)、「無比の見事な宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、諸人の利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、
シャカ族の村に、ルンビニー聚楽(じゅらく)に。
だから、われらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

六八四) 生きとし生ける者の最上者、最高の人、雄牛(おうし)のような人、生きとし生ける者ののうちの最高の人(ブッダ)はやがて仙人の集まる所という名の林で法輪を回転するであろう。
猛(たけ)き獅子(しし)が百獣に打ち勝って吼(ほ)えるように。」

六八五) 仙人は(神様の)その声を聞いて急いで人間世界に降りてきた。
その時スットーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐(ざ)して、シャカ族の人々に次のように言った。
「王子はどこにいますか。
私もまた会いたい。」

六八六) そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという仙人に見せた。
溶炉(ようろ)で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光輝く尊い顔の児を。

六八七) 火炎のように光輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昂(たか)まる喜びでわくわくした。

六八八) 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋(さんがい)を空中にかざした。
また、黄金の柄(え)のついた払子(ほっす)で身体を上下に扇いだ。
しかし、払子や傘蓋を手に取っている者どもには見えなかった。

六八九) カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、心喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。
その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。

六九〇) 相好(そうごう)と呪文(ヴェーダ)に通暁(つうぎょう)している彼は、シャカ族の雄牛のような立派な児を抱きとって、特相を検(しら)べたが、心に歓喜して声をあげた。
「これは無上の方(かた)です、人間のうちで最上の人です。」

六九一) 時に仙人は、自分の行く末を憶(おも)うて、塞ぎ込み、涙を流した。
仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、
「われらの王子に障(さわ)りがあるのでしょうか?」

六九二) シャカ族の人々が憂(うれ)えているのを見て、仙人は言った、
「私は、王子に不吉の相があるのを思い続けているのではありません。
また、彼に障りはないでしょう。
この方は、凡庸(ぼんよう)ではありません。
よく注意してあげて下さい。

六九三) この王子は最高の悟りに達するでしょう。
この人は、最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪を廻すでしょう。
この方の清らかな行いは広く広まるでしょう。

六九四) ところが、この世における私の余命はいくばくもありません。
この方が悟りを開かれる前に中途で私は死んでしまうでしょう。
私は比(たぐい)なき力ある人の教えを聞かないでしょう。
だから、私は、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

六九五) かの清らかな修行者(アシタ仙人)は、シャカ族の人々に大きな喜びを起こさせて、宮廷から去っていった。
彼は自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なき力ある人の教えに従うようにすすめた。

六九六) 「もしも、お前が後に
「目覚めた人あり、悟りを開いて、真理の道を歩む」
という声を聞くならば、その時そこへ行って、彼の教えをたずね、その師の下で清らかな行いを行え。」

六九七) その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。
その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、自らの感官をつつしみ守って暮らしていた。

六九八) 優れた勝者が法輪を廻したもうとの噂を聞き、アシタという仙人の教えの通りになった時に、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起こし、いみじき聖者に最上の境地をたずねた。

序文の詩句は終わった。

六九九) ナーラカは尊師に言った、
「アシタの告げた言葉はその通りであるということを了解しました。
故に、ゴータマよ、一切の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

七〇〇) 私は出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。
聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いて下さい。」

七〇一) 師(ブッダ)は言われた、
「私はあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
これは行い難く、成就し難いものである。
さあ、それをあなたに説いてあげよう。
しっかりとして、堅固(けんご)であれ。

七〇二) 村にあっては、罵(ののし)られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
罵られても心に怒らないように注意し、敬礼されても冷静に、高ぶらずに振る舞え。

七〇三) たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。
婦女をして彼を誘惑させるな。

七〇四)婬欲の事柄を離れ、様々の愛欲を捨てて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生き物に対して、敵対することもなく、愛著することもない。

七〇五) 「彼らも私と同様であり、私も彼らと同様である」と思って、わが身に引き比べて、生き物を殺してはならぬ。
また他人を殺させてはならぬ。

七〇六) 凡夫は欲望と貪りとに執著(しゅうじゃく)しているが、眼(まなこ)ある人は、それを捨てて道を歩め。
この世の地獄を超えよ。

七〇七) 腹を減らして、食物を節し、少欲であって、貪ることなかれ。
彼は貪り食う欲望に厭(あ)きて、無欲であり、安らぎに帰している。

以下略。

すごいですね。

まるで、美辞麗句が雨あられのように並んでいます。

それはともかく。

なぜ、帝釈天をはじめとする神々様や、お釈迦さんが悟りを開くまでには寿命がないと悲しむアシタ仙人さん(ひろさちやさんの「釈迦」(春秋社)では他の仙人のことを、アーラーダ仙、ウドラカ仙のように書かれている。経文ではアシタ仙とあったり、アシタ仙人としてあったりして表記が一貫していない。何故かはわからない)といった方々が、これほどまでにお喜びになるのでしょうか?

やはり、上記のような神様観で考えれば、すっきりとしていて理解がしやすいと思うんですけどね。

ついでになりますが。

上記の中の、

「ボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、諸人の利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです」

を私流に解釈させてもらうと、

「この世の中で、煩悩に苦しむ、すなわち、欲望に駆られ、迷いに迷い、様々な病争貧苦に、あえぎ苦しんでいる人々に、正しい人としてのあり方を指し示して、少しでも、みんなの悩みや苦しみを取り除いてあげるため、
そして、
人間とは本来どういうものかをわからせるため、
ひいては、
そうした人々によって構成される世の中を、よい方向に向かわせることのできる、
最適任者がこの世に誕生した」

といった感じに解釈できますね。

なお、経文の中には、もしもこれが、そっくりそのままお釈迦さんのお言葉だとすると、多少気になる点はいくつかあるのですが、勝手ながら今回は省略させて頂きます。

ご了承願います。

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①追記: 2023/03/29 12:00
②追記: 2023/05/15 23:21
 〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題と本文を加筆・訂正しました。

②について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。

この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。