おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

348_法話50-33

33. 慈しみの心さえあれば

仏の教えを喜び、
慈しみに住する修行僧は、
一切の現象から鎮(しず)まることから生まれる
涅槃(ねはん)に到達するであろう。

(三六八) (第25章 出家修行者(比丘) より)

以下、S さんの内容を (a)、私の思うところを (b) として、逐条解釈的に見ていきたいと思います。なお、私の判断で、適宜、改変・要約・書き換えなどがあることは、ご了承願います。

(a) すべては心から出ています。

心があって、考え、話し、行動しています。

すべては心のあらわれだからです。

心が汚れていればすべては汚れたものになります。

心がささくれだって荒れていれば、争いが起きます。

心が苦しめば、どこにいても苦しい世界です。

天国にいけたとしても苦しいでしょう(?)。

逆に、心が安らかであれば、どこにいても安らかな世界になります。

やさしい慈しみの心があれば、すべては清らかになります。

人間関係も円滑に進みます。平和な心があれば、平安な世界で暮らすことができます。

すべての発生源である心を清らかにすれば、自然に生きていけるようになります。

誰かと話をしていても、その言葉は相手に対する憎しみや嫉妬、怒りの言葉にはなりません。

相手を傷つける言葉ではなく、自然に他の生命に対してやさしい(いわば、尊重する)言葉になっています。

(b) 本来、私達肉体人間が、が神様の分けられたお命、神様の霊なる光によって生かされているように、神界から流れてくる光そのままの想いや行いができていれば、その光の届く末端の現界であるこの世は、真善美と愛に悖らない、素晴らしい調和したものとなるはずです。

しかし、神界から霊界、幽界と光が通るうちに、これが汚され曇らされて、今のようなお世辞にも調和に満ちている美しき世界とは言い難い世の中になってきている。

その神様の光をさえぎり、曇らせているものは、人間=肉体人間だ、という肉体人間観により生じた五感にもとづく各種の欲によってつくられた神様のみ心から外れた間違った想いと行いの業想念。

肉体人間を個とする利害得失計算から生じた、自分さえよければ他人はどうなってもいい、人様より抜きん出たい、憎い、欲しい、妬ましい、などなどが、すべてこれに当てはまる。

そうした想いが起き、行いとなるたびに、輪廻転生を通して、それが巡り巡って回ってくる。

この世でのあらわれとしては、神様のみ心に沿わないものは、清算のような形あらわれ、その消失を余儀なくされることになる。

だから、業想念というものは、輪廻転生を通して、神様のおつくりになった世界には、あるべからざるものとして、消失させられるような形になっている。

しかも、この業想念は、生じたそのままがすべてこの世にあらわれれば、大変なことになってしまう。

そこで、世の中が滅びないように、このうちの想いを、この世でのあらわれの行いとなる前に、その裁量の範囲内で浄めて未然に防いで下さるのが、守護霊様や守護神様といった守護の神霊様となっている。

守護霊様と守護神様は、神様のおはからいのもとに、各人に配され、肉体人間の霊性の向上を見守りながら、守って下さっている。

従って、S さんの書かれている心とは、ほぼ想いと読み替えることができる。

S さんの言われていることは、想いを整えてきれいにすれば、すなわち、神様のみ心のままにあらわすことができれば、その結果としての行いも良きものとしてあらわれてくる、ということですね(ただし、私達は意識できないけれど、大半の想いや行いが、過去世からの積み上げられた想いの結果ですけど)。

想いが清らかであれば、当然に、神様のあらわしたところの、ありとあらゆるものに対する慈しみの想いが生まれてくる。

いわゆる、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)や、造語の山川草木悉皆成仏 (さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)を別の形であらわしたものと言えますね。

(a) ところが、根元である心を清らかにしないで、「私は優しい言葉を使うぞ」と決意してみても、辛(つら)くなるばかりです。

まずは優しい心を育てましょう。

そうすれば、私達の行動は、優しい行動に変わります。慈しみの心さえあれば、私達の生き方そのものが、そのまま正しい生き方になってしまうのです。

お釈迦様は、「瞬間でも慈しみの心を育てなさい。それだけでも立派なことである」と説かれました。

慈悲の心がなければ、もはや仏教ではないと言ってもいいと思います。

慈悲は仏教の真髄なのです。

しかし、慈悲の心は何もせずに放っておいても生まれてくるものではありません。

努力して育てていくものです。

(b) これは、想い→行い、の形になっているところに、善悪そぐわないものを、無理矢理合わせようとしてもダメだ、ということですね。

齟齬(そご)が生じて、余分な業想念が生じてしまうから。

良き想い→良き行い、悪い想い→悪い行い、となっているから、あくまでも、良き行いをしたければ、良き想いを持ちなさい、と。

神様のあらわしたあらゆるものに対する、愛しむ心、慈しむ心=想いを抱けば、優しい想いを抱き、優しい行動を取ることができるようになる。

そして、神様の光そのままの、この優しい想い、慈しみの想いは、過去世から蓄積されている業想念によって汚されてしまうから、できるだけ浄めることと、今からならば、できるだけ良き想いを出すように努(つと)めることですね。

それがこの世たる現世と来世以降を、神様のみ心に近づける、より良きものにしていくための法則だから。

S さんの言われている、「慈悲の心は何もせずに放っておいても生まれてくるものではありません。努力して育てていくものです」は、これに置き換えることができると思います。

(a) お釈迦様は、日常生活の中で実践できるものとして、「慈悲の瞑想」を教えました。

慈悲の心を育てるには、まず「自らが幸せでありたい」と、よく認識しなければなりません。

そして、次に「自分だけが幸せでいられるはずはない」という当たり前の事実に気づくことです。

自分の幸せは、周りの人々の幸せがあってこそ成り立つのです。

慈悲の瞑想とは、どんな時にも、心の中で「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものです。

まずは「自分の幸せ」、次の「親しい人の幸せ」、そして「親しくない人の幸せ」、「嫌いな人の幸せ」、「自分を嫌っている人の幸せ」、最後に「生きとし生けるもののすべての幸せ」を念じるのです。

そして、できるだけ怒らないようにしていかなければなりません。

ひとたび怒ったならば、慈悲の心はたちまち消えてしまいます。

「私を嫌っている人が人も幸せでありますように」、
「私が嫌いな人も幸せでありますように」
と念ずる時には、腹立たしいこともあるかもしれませんが、我慢して念じるのです。するとそのうちに、
「あの人も、この人も幸せであってほしい」
という気持ちになってきます。

「みんなが幸せであってほしい。どうして、あの人達は苦しんでいるのだろう」
と、他人に対する心の視野が広くなってくるのです。

慈悲の瞑想が深まっていきますと、親しい人の幸せを念ずる時には、どんどん人数が増えていきます。

「生きとし生けるものが、幸せでありますように」と朝から晩まで、寝ていても思い出すほどに念じていくのです。

そうすると、自我中心の心が、徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみも消えていきます。

こうして、慈悲の心が育つと優しい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。

それこそが、エゴを乗り越える道なのです。

(b) これ、霊性のことを抜かしていることを除くと、ほとんど五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の書いていることに似通っていますね。

五井先生の教義の人間と真実の生き方には、自分を赦(ゆる)し、人を赦し、とあります。

肉体人間観が抜きがたくある私達には、なかなか、自他一体感は得ることができない。

どうしても、肉体人間としての個人から始めていくより他はない。

だから、自らとその近しい者から、次第に広い範囲に愛情を及ぼしていくことが、まずは必要となる。

それが端的に広まっている言葉が、「世界人類が平和でありますように」。

本来なら、みんなが神様の分けられたお命を頂いた兄弟姉妹であり、同胞なのだから、教条的に、演繹的に、神様のあらわしたすべての人が幸せである、と持ってきてもおかしくない。

しかし、肉体人間観が抜きがたく、過去世からの業想念による、互いに相反する因縁がある以上、これは難しいし、やり方としては適当とはならない。

従って、まずは身近なところである個人から始めることになる。

そうして、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行を続けていけば、少しずつ、過去世から溜まっている業想念を浄めて消していくことになるから、良き想いを出すよりも、ずっと早い形で、良き因縁因果が巡る形となる。

なぜならば、我慢するということは、すなわちよろしくない想いを無理矢理潜在意識たるところの、想いの世界である幽界に押し込めてしまうことだから。

お釈迦さんの時代のような厳しい自力修行ができるならいざ知らず、現代ではこの潜在意識を浄めるのは、非常に難しい。

そして、寝ても覚めても世界平和の祈りは、まさに、五井先生の書かれていた理想そのもの。

五井先生の詩に、次のようなものがあるからです。

己が幸願う想いも朝夕の
世界平和の祈り言の中

だから、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をすることが、より望ましいとなりますね。

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追記: 2024/04/27 21:23
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

347_法話50-32

32. 慈悲の心を育てる

昼も夜も害を与えない
(慈しみ)の心でいる比丘は、
いつも覚醒して常に冴(さ)えている。

(三〇〇) (第21章 さまざまなこと より)

以下、スリランカ仏教界の長老のアルボムッレ・スマナサーラさんを、S さんとします。ご了承下さい。文章も個人的な判断で、改変・省略・意訳などしますが、ご了承下さい。

S さんは次のように言う。

動物を見ても、植物を見ても、どんな生命を見ても、自分の心を広げてから、見てご覧なさい、と。

それぞれが、等しく同じ生命で、大海のようにつながっているという感覚が生まれますよ、と。

そして、自分は、海水の一滴のような存在で、特別な存在ではないとわかってくる、と。

こうした感情が生まれることで、自分という我が消えてゆく、と。

さらに、対人では、人様の幸せを願うことが、自らの心を喜ばせることで、こうして相手たる人様の心も喜ぶ、と。

人様の心が喜べば、同じ波動が自らに返ってきて、ともに喜び合える。

それが慈悲の働きだ、と。

この、それぞれの生命が、大海のようにつながっているというのは、動物も植物もその他のものも、すべて神様のお働きによるあらわれである、神様の命を吹き込まれて生きているんだ、ということですね。

中でも、肉体人間は、その本質を神様の分けられたお命としているから、他の生命にはない、知恵と創造力を授かり、万物の霊長となっている。

お互いが、本質において神様の命を分けられた者であれば、互いに、愛し合い、慈しみ合い、尊重し合い、協力し合っていくのは、当然だ、ということになりますね。

ただし、現実世界(と認識されている)この世では、各々に過去世からたくさんの因縁、中でも業想念が蓄積されているために、そんなに簡単に理想通りにはいかないものになっていますけど。

あらゆるものに対する慈しみは、霊性が開発されれば、当然にそなわるものの一つと言えますね。

いわば、神様讃歌の一環だから。

そのように思います。

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①追記: 2021/04/29 04:52
②追記: 2024/04/27 21:12
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

346_法話50-31

31.「知っている」と思う者が愚か者

もし愚か者が、
自ら愚か者であることを知るならば、
すなわち賢者である。
愚か者でありながら、
しかも自ら賢者だと思う人こそ、
愚か者だと言われる。

(六三) (第5章 愚か者 より)

S さんの言うことを(私の独断と偏見の意訳で)まとめると。

S さんによると、自分は知っている、自分は正しい、とする人間が愚か者だと言う。

そして、こうなってしまうと、謙虚さが失われ、従って、(探求心もなくなり)成長が止まると言う。

まあ。

とはいえ、知っている場合だってあるでしょう。

一概に、知らないと決めつけるのはおかしいですよ。

ちょっと、話の運びが雑だと思います。

神様が、この世のありとあらゆるものをおつくりになったのならば、本当に肉体人間の知識、いわゆる、才智はとるに足らない。

あらゆる生命の誕生の不思議、成長の不思議など、わからずじまいなのではないですか?

遺伝子もほんの触り(と思われる)内容だけでも信じられないほどに精緻で詳細にわたります。

肉体人間は、現段階ではあくまでもその外枠だけをようやくとらえたくらい。

あんな想像を絶する生命の設計図を作ることもできなければ、働きを作りだすこともできない。

外からほんの触りを、わずかに操作するだけ。

だから、この世で抱きがちな、人様との比較での名誉欲、非崇拝欲など、本当に愚かしい。

研究しながら、ようやく、はしっこの、はしっこの、はしっこに、かろうじてたどりつけたけど、お互いによくここまできたね、と励まし合うのが、適当と思われるくらい。

そう考えてくると、肉体人間はあらゆるものを、常に謙虚な姿勢で学んでいくべきだと思わされる。

S さんは、この内容に関連して、さらにもう 1 つの経文をあげています。

愚かな者は、
自分にありもしない尊敬を得ようと願う。
修行僧の間では高い地位を望み、
僧院にあっては支配権を望む。

(七三) (第5章 愚か者 より)

道を求めていくのもそう。

肉体をまといながら、自分の本質は神様である、神様の分けられたお命だと、悟るのは超のつく難行・苦行。

悟りは、過去世からの積み重ねによるから、今生(今回の人生)で悟りを得ることができるとは限らない。

むしろ、得ることの方が、希でしょう。

それでも、悟りたければ、ひたすら精進していくしかない。

輪廻転生を通して、来世以降にたすき(バトン)を渡すように、努力を続けるより他はない。

だから、人様と比較して、ちょっとばかりすすんだだの、偉くなっただのと、誇示しているのは、滑稽な限り。

ちょっと謙虚だからと言って、賢者と言うのさえ、はばかられるようなもの。

これらの経文は、過去世からにわたり、たくさんの業想念を積んだ肉体人間は、常に謙虚に精進していきなさい、と言っているものだと思われます。

現代では、人様に認められたい、という渇望は、承認欲求と言うようですが、人様の目ばかり気にしていては、いつまで経っても相対評価の呪縛を外せずに、いたちごっこは終わらない。

いわば、承認欲求の価値を相対評価に求めるから、ダメな訳です。

人様の目を気にしないためには、どうすればよいのか?

バッハさんが、神に音楽を捧げたようにすればいい。

いかに神様のみ心に沿うか、適(かな)うか、自らの真善美にたいする判断力に照らし合わせて、ただひたすら精進していけばいい。

つまり、絶対評価に評価の基準を置いて精進していけばいい。

あと、やっぱり、霊性の開発、現代なら世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行も必要でしょうね。

アイツがだめだ、コイツがだめだ、俺様の方が偉い、なんだかんだ、というのは、すべて真善美に悖る、反する想いと行いの業想念。

これを浄めてなくさなければ、根本的な解決にはならないから。

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①追記: 2021/04/29 03:20
②追記: 2021/04/29 17:17
③追記: 2024/04/27 21:09
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

345_法話50-30

30. こわれなければ創造はない

「すべてのものは無常である」(諸行無常)と
明らかな智慧をもって観(み)る時に、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが人が清らかになる道である。

(二七七) (第20章 道 より)

手抜きみたいですみませんが、これも先に見た、( 342_法話50-28-1 - おぶなより ) と ( 343_法話50-28-2 - おぶなより ) に取り上げた内容と重なるので、もし、お知りになりたい方は、お手数ですが、そちらをご参照願います。

S さんも、ここも人間の死に重きを置いた話をしています。

一部、書いておくと(改変などあり)。

すべては壊れるのです。私達の世界も壊れるのです。何一つ例外はありません。「自分だけが壊れたくない」ということはあり得ません。

人間にとっての最大の恐怖は、自分の生命が壊れること、すなわち、「死」です。

ブッダとは(真理に)目覚めている人のことですが、目覚めた人は、「死」という究極的な現実を実感しているので、何も恐れることはありません。

宗教では、死んだら「来世」や「天国」や「浄土」があると、様々に教えていますが、こうした架空の世界を想定して、そこに信を置くのは「逃げ」です。

逃げることでは恐怖感は克服できません。

真の自由を得るためには、恐怖の現実から逃げずに直面することです。

心をよく観察すれば、常に変化していることがわかります。心から心へと、瞬間瞬間、変化しています。寄せては返す波のように、「死んで生まれて、死んで生まれて」の連続なのです。そのことが実感できれば恐怖は消えていきます。

とのこと。

いろいろと批判的に検討して書きたいところですが、かなり疲れてしまったので、すみませんが、霊性面の話は省略します。

今までに答えはたくさん書いてきたので、それでご容赦下さい。

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追記: 2024/04/27 17:15
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

344_法話50-29

29. 自分が死ぬということを覚悟する

人々は、
我々は死すべき者だと気づいていない。
この理(ことわり)に、他の人は気づいていない。
この理を知る人があれば、
争いは鎮まる。

(六) (第1章 対句 より)

これは先に見た、( 342_法話50-28-1 - おぶなより ) と ( 343_法話50-28-2 - おぶなより ) に取り上げた内容と重なるので、もし、お知りになりたい方は、お手数ですが、そちらをご参照願います。

なお、その経文は以下の通りです。

28. わたしも同様に死ぬのだと観察する

この体は衰え果てた。
病の巣であり、もろくも滅び去る。
腐敗のかたまりで、くずれてしまう。
生命は死に帰着する。

(一四八) (第11章 老い より)

まあ、私の言いたかったのは、肉体人間の死はそんなに簡単に諦め切れるものではないし、そもそも、諦観できるような人は、やはり、輪廻転生を通して、そして、今生をも加えて、自力にしろ、他力にしろ、想いや行いそれなりの修行を重ねてきた人なのではないか、ということです。

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追記: 2024/04/27 17:08
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

343_法話50-28-2

以下は、改変・要約・書き換えなどを含みます。

ご理解とご了承をお願い致します。

以下、「人間にとっての死の恐怖と因縁因果の転回について」の五井先生のお話です。

ーーーーーーーーーー

人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。

いかなる苦しみに直面したとしても、死の恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにはならない。

死ほど、人間の感心をそそる出来事は他にないであろう。

死は人間にとっての終わりなのか、それとも何かしらの他の世界への転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いない。

人間は肉体消滅によってなくなってしまうものではない。

肉体人間の死とは、幽界(から霊界)への霊なる人間の転出なのである。

肉体の死とは、幽界への誕生なのである。

死ぬことを往生(おうじょう)と言っていたのは、昔の人はこのことを知っていたからなのである。

肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊(わけみたま)が幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいう。

肉体とは分霊の入れ物であって、分霊の心のままに行動するので、自動車が運転手によって走るように、分霊の運転によって様々な行動をするのである。

神である直霊から分かれた分霊が、まずは幽体をつくり、それを下着やシャツのように着(つ)け、さらにその上に、肉体という上着を着けた姿を、普通は人間と呼んでいたので、その肉体の消滅を、人間の消滅と思い込んできてしまったのである。

これを物理学的に言うと、霊体は非常に細かい周波数をもつ波長の体であり、肉体は粗い周波数をもつ波長の体であり、幽体はそれらの中間の周波数をもつ波長の体であり、分霊はその 3 つの体を自己の体としているが、肉体に入るには必ず幽体を着けてゆかなければならないのである。

それは、霊体から肉体に移るには周波数の波長があまりにも違うために合わないからである。

幽体は分霊と肉体を結びつける役目を持っていて、分霊の念と肉体人間としての脳髄の想いとを、その体に録音しておく役目を持っている。

肉体人間の死によって、分霊たる霊なる人間は、幽体をつけたまま、幽界において生活する。

この幽界も肉体界(現界)と同様に、様々な生活があり、段階がある。

それは、幽体に溜め込まれて蓄積された想いの通りに実現されていくことになる。

この人の想いが、憎しみに満ちていれば憎しみに取り囲まれた生活をする。

愛深き想いの人ならば、愛深き想いの人々と共に生活をする、というようになる。

従って、その蓄積された様々な想いにしたがって、幽界の段階は限りなく分かれているが、大別すると、天界、人界、地界の 3 段階に分けられる。

上位の天界は、愛深き人、物欲少なき人、執着少なき人など、神の心に近い人々が住み、さらに細かい段階に分かれている。

人界とは、肉体界における普通人であり、平均点の人々の生活圏である。

地界は、愛に背く者、物欲深き者、執着強き者、自我の強い者、怠惰な者など、神の心に遠い者が、その業因縁を消滅させられるために住む世界である。

人界、地界(この世界はお互いの幽体が見えて、その点は肉体界と同じである。ただ、すべてにおいて肉体界より速度かが速く、善悪とも、思うことがすぐに実現する)においては、業因縁の渦(うず)から脱しようとしても、念波の周波数が肉体界より細かいので、肉体界以上に業因縁の渦は急速に回転する。

そのために、その業因縁の渦中にある場合には、なかなか、その渦を抜け出すことができない。

その渦の輪を抜け出すためには、一度、想いを停止すること、絶対の精神統一に入ることが必要である。

すなわち、神にのみ心を集中して、いかに業因縁の念が自己の周囲を回転しても、見向きもしないことであり、その精神統一の深さに従って、蓄積された想いの消滅の仕方が異なり、同時に、自己の住む世界(波動圏)が高くなる。

言い換えれば、いかなる辛さも、苦しみも、自分に都合が悪いことが出てきても、それは今、自分を取り囲んだ業因縁が消え去ってゆく姿であると見て、ただひたすら、神との統一感に浸(ひた)れ、ということで、これは肉体界と同じである。

ただ、肉体界のように、業因縁が緩慢にあらわれる世界とは違い、激しく、急激にあらわれるために、なかなか、その苦しみに耐えることができない。

これに鑑みる時、肉体界で生活する間に、できる限り自分の業因縁を消し去っておくことが、幽界で同じ業因縁を消し去るより、どれだけ楽かわからないのである。

例えば、100 万円の借金(業因縁)をした人が、肉体界においては、5 万円ずつの月々の分割払いで済むとすれば、幽界では、一度に 100 万円を支払わなければ、さらに 100 万円の利息がつく、という具合である。

幽界(人界、地界)では精神統一が最大の悟道の法であるが、もう 1 つの悟法は守護神の指導に素直になることである。

肉体界で、守護霊、守護神の助けがあるように、同じく、幽界においても、守護霊、守護神の助け(主に守護神)の導きがあるので、これに素直に従ってゆくことが、自己を救う良い方法なのである。

この場合には、自己の目の前の利益(りえき)を超えて導かれることが多いので、たとえ、守護神の導きが自己に不利なように見えても、素直に従うべきである。

この場合でも、肉体界において、常に守護霊、守護神に感謝していた人は、非常に益することが多いのである。

このようにして、幽界においてある程度浄化されると、再び肉体界に誕生して、また、さらに異なる生活の経験をして、何度もこのような経験を繰り返して、次第に高度な生活に導かれて、ついには、天界に至り、神格を得て、神界に住み、あるいは、覚者(仏)となって、肉体界、幽界の指導者となるのである。

結局、人間はその人自身が、すでに過去世から蓄積してきた悪想念を、いかに巧みに消し去るかによって、その人の運命が異なり、高度になってゆく。

桶(おけ)が汚水で一杯になっていたら、人は必ずそねぬ水を捨てて、新しい水に汲み変えるであろう。

しかし、人間は、自分の運命の汚水である悪想念をそのまま流さずにおきたがるものなのである。

なぜならば、その悪想念である汚水がこぼれると、その人の生活に不幸や病気が起こり、その場が汚れるからである。

かといって、次々と、不幸や病気への恐怖や恨み、怒りなどの悪想念である汚水を流し続けたたならば、桶からは常に汚水がこぼれ続け、その場は汚水だらけになり、いたたまれなくなるであろう。

この汚水を無くすには、まずは、良い想いや愛と感謝といった、清いきれいな水をその桶に注ぎ込むことが、第一に必要であり、それと同時に、その場の拭き掃除をすればよいのである。

人間には、こうした忍耐力と勇気が必要である。

ーーーーーーーーーー

これらを読んでわかることは。

いくら、生きとし生けるものの死を何度も目の当たりにしても、肉体人間の死が、幽界への移行、あるいは誕生である、と心から認識できない限り、恐怖心を払拭するのは、できないのではないか、ということです。

つまり、そう簡単には肉体人間の死を諦観できないのではないか、ということ。

もう 1 つは、こうした想いと行いの輪廻転生を通した因縁因果の転回は、やはり、精神統一なり、祈りなり、自力修行をしないと、簡単には消失させることはできないのではないか、ということです。

これをいとも簡単に克服できるとは思えないんですけど。

まあ、あとはお読みになる方のご判断にお任せ致します。

なお、経文があのような表現になっているのは、やはり、肉体人間は、時間の経過とともに少しずつ衰えてゆき、いずれは死を免れないんだよ、とお釈迦さんが言いたかった、と読めると思います。

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①追記: 2021/04/28 02:17
②追記: 2024/04/27 16:58
③追記: 2024/04/27 21:03
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

342_法話50-28-1

28. わたしも同様に死ぬのだと観察する

この体は衰え果てた。
病の巣であり、もろくも滅び去る。
腐敗のかたまりで、くずれてしまう。
生命は死に帰着する。

(一四八) (第11章 老い より)

S さんによると、仏教経典には「すべてのものは消えてゆく。同じように私も消えてゆく」という言葉があるそうです。

そして、お釈迦さんが、「死を瞑想として観察しなさい」と教えた、としています。

死の瞑想とは、この世の生きとし生けるものの死、人間から始まって、動物や植物や昆虫などの死に直面するたびに、これらの死をわが身に置き換えて、「私もいつまでも生きている訳ではない。私も同じように死ぬのだ」と死を「わがこと」として観察することを言うそうです。

この瞑想を深めていくと、やがて「死ぬのがこわい、どうしよう」といった不安や恐れはなくなってくる(?)とのこと。死というものは、生きとし生けるものには、当然の理(ことわり)であって、大したことではない(??)とわかってきます(???)。

すると、人とも争わなくなります(???)。何か不愉快なことをされても「そんなことはどうでもいいや。どうせいつか自分は死ぬんだから、争うなんて馬鹿らしい。それよりも相手と仲良くしよう」というふうになる(???)そうです。

財布を無くしても、リストラに遭っても、決して投げやりな気分からではなく、「まあいいか。どうせみんな無くなるものだから」という諦観に立てます(???)。

生き方がとても楽になるのです(???)。そして、そのことに気づいた時から、「今」が充実した素晴らしい人生に変わっていくことでしょう(???)、としています。

S さんのお話は大体、以上のようになっているのですが・・・。

私個人としては、人間にとっての死の恐怖と因縁因果の転回について、ちょっと理解し難い点があります。

まあ、私のような力不足な者が、クドクド文句を言っても説得力がないので、次回に五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の参考になると思われる内容を引いておくことにします。

次回に続きます。

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①追記: 2024/04/27 16:38
②追記: 2024/04/27 16:41
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。