33. 慈しみの心さえあれば
仏の教えを喜び、
慈しみに住する修行僧は、
一切の現象から鎮(しず)まることから生まれる
涅槃(ねはん)に到達するであろう。
(三六八) (第25章 出家修行者(比丘) より)
以下、S さんの内容を (a)、私の思うところを (b) として、逐条解釈的に見ていきたいと思います。なお、私の判断で、適宜、改変・要約・書き換えなどがあることは、ご了承願います。
(a) すべては心から出ています。
心があって、考え、話し、行動しています。
すべては心のあらわれだからです。
心が汚れていればすべては汚れたものになります。
心がささくれだって荒れていれば、争いが起きます。
心が苦しめば、どこにいても苦しい世界です。
天国にいけたとしても苦しいでしょう(?)。
逆に、心が安らかであれば、どこにいても安らかな世界になります。
やさしい慈しみの心があれば、すべては清らかになります。
人間関係も円滑に進みます。平和な心があれば、平安な世界で暮らすことができます。
すべての発生源である心を清らかにすれば、自然に生きていけるようになります。
誰かと話をしていても、その言葉は相手に対する憎しみや嫉妬、怒りの言葉にはなりません。
相手を傷つける言葉ではなく、自然に他の生命に対してやさしい(いわば、尊重する)言葉になっています。
(b) 本来、私達肉体人間が、が神様の分けられたお命、神様の霊なる光によって生かされているように、神界から流れてくる光そのままの想いや行いができていれば、その光の届く末端の現界であるこの世は、真善美と愛に悖らない、素晴らしい調和したものとなるはずです。
しかし、神界から霊界、幽界と光が通るうちに、これが汚され曇らされて、今のようなお世辞にも調和に満ちている美しき世界とは言い難い世の中になってきている。
その神様の光をさえぎり、曇らせているものは、人間=肉体人間だ、という肉体人間観により生じた五感にもとづく各種の欲によってつくられた神様のみ心から外れた間違った想いと行いの業想念。
肉体人間を個とする利害得失計算から生じた、自分さえよければ他人はどうなってもいい、人様より抜きん出たい、憎い、欲しい、妬ましい、などなどが、すべてこれに当てはまる。
そうした想いが起き、行いとなるたびに、輪廻転生を通して、それが巡り巡って回ってくる。
この世でのあらわれとしては、神様のみ心に沿わないものは、清算のような形あらわれ、その消失を余儀なくされることになる。
だから、業想念というものは、輪廻転生を通して、神様のおつくりになった世界には、あるべからざるものとして、消失させられるような形になっている。
しかも、この業想念は、生じたそのままがすべてこの世にあらわれれば、大変なことになってしまう。
そこで、世の中が滅びないように、このうちの想いを、この世でのあらわれの行いとなる前に、その裁量の範囲内で浄めて未然に防いで下さるのが、守護霊様や守護神様といった守護の神霊様となっている。
守護霊様と守護神様は、神様のおはからいのもとに、各人に配され、肉体人間の霊性の向上を見守りながら、守って下さっている。
従って、S さんの書かれている心とは、ほぼ想いと読み替えることができる。
S さんの言われていることは、想いを整えてきれいにすれば、すなわち、神様のみ心のままにあらわすことができれば、その結果としての行いも良きものとしてあらわれてくる、ということですね(ただし、私達は意識できないけれど、大半の想いや行いが、過去世からの積み上げられた想いの結果ですけど)。
想いが清らかであれば、当然に、神様のあらわしたところの、ありとあらゆるものに対する慈しみの想いが生まれてくる。
いわゆる、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)や、造語の山川草木悉皆成仏 (さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)を別の形であらわしたものと言えますね。
(a) ところが、根元である心を清らかにしないで、「私は優しい言葉を使うぞ」と決意してみても、辛(つら)くなるばかりです。
まずは優しい心を育てましょう。
そうすれば、私達の行動は、優しい行動に変わります。慈しみの心さえあれば、私達の生き方そのものが、そのまま正しい生き方になってしまうのです。
お釈迦様は、「瞬間でも慈しみの心を育てなさい。それだけでも立派なことである」と説かれました。
慈悲の心がなければ、もはや仏教ではないと言ってもいいと思います。
慈悲は仏教の真髄なのです。
しかし、慈悲の心は何もせずに放っておいても生まれてくるものではありません。
努力して育てていくものです。
(b) これは、想い→行い、の形になっているところに、善悪そぐわないものを、無理矢理合わせようとしてもダメだ、ということですね。
齟齬(そご)が生じて、余分な業想念が生じてしまうから。
良き想い→良き行い、悪い想い→悪い行い、となっているから、あくまでも、良き行いをしたければ、良き想いを持ちなさい、と。
神様のあらわしたあらゆるものに対する、愛しむ心、慈しむ心=想いを抱けば、優しい想いを抱き、優しい行動を取ることができるようになる。
そして、神様の光そのままの、この優しい想い、慈しみの想いは、過去世から蓄積されている業想念によって汚されてしまうから、できるだけ浄めることと、今からならば、できるだけ良き想いを出すように努(つと)めることですね。
それがこの世たる現世と来世以降を、神様のみ心に近づける、より良きものにしていくための法則だから。
S さんの言われている、「慈悲の心は何もせずに放っておいても生まれてくるものではありません。努力して育てていくものです」は、これに置き換えることができると思います。
(a) お釈迦様は、日常生活の中で実践できるものとして、「慈悲の瞑想」を教えました。
慈悲の心を育てるには、まず「自らが幸せでありたい」と、よく認識しなければなりません。
そして、次に「自分だけが幸せでいられるはずはない」という当たり前の事実に気づくことです。
自分の幸せは、周りの人々の幸せがあってこそ成り立つのです。
慈悲の瞑想とは、どんな時にも、心の中で「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものです。
まずは「自分の幸せ」、次の「親しい人の幸せ」、そして「親しくない人の幸せ」、「嫌いな人の幸せ」、「自分を嫌っている人の幸せ」、最後に「生きとし生けるもののすべての幸せ」を念じるのです。
そして、できるだけ怒らないようにしていかなければなりません。
ひとたび怒ったならば、慈悲の心はたちまち消えてしまいます。
「私を嫌っている人が人も幸せでありますように」、
「私が嫌いな人も幸せでありますように」
と念ずる時には、腹立たしいこともあるかもしれませんが、我慢して念じるのです。するとそのうちに、
「あの人も、この人も幸せであってほしい」
という気持ちになってきます。
「みんなが幸せであってほしい。どうして、あの人達は苦しんでいるのだろう」
と、他人に対する心の視野が広くなってくるのです。
慈悲の瞑想が深まっていきますと、親しい人の幸せを念ずる時には、どんどん人数が増えていきます。
「生きとし生けるものが、幸せでありますように」と朝から晩まで、寝ていても思い出すほどに念じていくのです。
そうすると、自我中心の心が、徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみも消えていきます。
こうして、慈悲の心が育つと優しい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。
それこそが、エゴを乗り越える道なのです。
(b) これ、霊性のことを抜かしていることを除くと、ほとんど五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の書いていることに似通っていますね。
五井先生の教義の人間と真実の生き方には、自分を赦(ゆる)し、人を赦し、とあります。
肉体人間観が抜きがたくある私達には、なかなか、自他一体感は得ることができない。
どうしても、肉体人間としての個人から始めていくより他はない。
だから、自らとその近しい者から、次第に広い範囲に愛情を及ぼしていくことが、まずは必要となる。
それが端的に広まっている言葉が、「世界人類が平和でありますように」。
本来なら、みんなが神様の分けられたお命を頂いた兄弟姉妹であり、同胞なのだから、教条的に、演繹的に、神様のあらわしたすべての人が幸せである、と持ってきてもおかしくない。
しかし、肉体人間観が抜きがたく、過去世からの業想念による、互いに相反する因縁がある以上、これは難しいし、やり方としては適当とはならない。
従って、まずは身近なところである個人から始めることになる。
そうして、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行を続けていけば、少しずつ、過去世から溜まっている業想念を浄めて消していくことになるから、良き想いを出すよりも、ずっと早い形で、良き因縁因果が巡る形となる。
なぜならば、我慢するということは、すなわちよろしくない想いを無理矢理潜在意識たるところの、想いの世界である幽界に押し込めてしまうことだから。
お釈迦さんの時代のような厳しい自力修行ができるならいざ知らず、現代ではこの潜在意識を浄めるのは、非常に難しい。
そして、寝ても覚めても世界平和の祈りは、まさに、五井先生の書かれていた理想そのもの。
五井先生の詩に、次のようなものがあるからです。
己が幸願う想いも朝夕の
世界平和の祈り言の中
だから、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をすることが、より望ましいとなりますね。
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追記: 2024/04/27 21:23
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。