343_法話50-28-2
以下は、改変・要約・書き換えなどを含みます。
ご理解とご了承をお願い致します。
以下、「人間にとっての死の恐怖と因縁因果の転回について」の五井先生のお話です。
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人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。
いかなる苦しみに直面したとしても、死の恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにはならない。
死ほど、人間の感心をそそる出来事は他にないであろう。
死は人間にとっての終わりなのか、それとも何かしらの他の世界への転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いない。
人間は肉体消滅によってなくなってしまうものではない。
肉体人間の死とは、幽界(から霊界)への霊なる人間の転出なのである。
肉体の死とは、幽界への誕生なのである。
死ぬことを往生(おうじょう)と言っていたのは、昔の人はこのことを知っていたからなのである。
肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊(わけみたま)が幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいう。
肉体とは分霊の入れ物であって、分霊の心のままに行動するので、自動車が運転手によって走るように、分霊の運転によって様々な行動をするのである。
神である直霊から分かれた分霊が、まずは幽体をつくり、それを下着やシャツのように着(つ)け、さらにその上に、肉体という上着を着けた姿を、普通は人間と呼んでいたので、その肉体の消滅を、人間の消滅と思い込んできてしまったのである。
これを物理学的に言うと、霊体は非常に細かい周波数をもつ波長の体であり、肉体は粗い周波数をもつ波長の体であり、幽体はそれらの中間の周波数をもつ波長の体であり、分霊はその 3 つの体を自己の体としているが、肉体に入るには必ず幽体を着けてゆかなければならないのである。
それは、霊体から肉体に移るには周波数の波長があまりにも違うために合わないからである。
幽体は分霊と肉体を結びつける役目を持っていて、分霊の念と肉体人間としての脳髄の想いとを、その体に録音しておく役目を持っている。
肉体人間の死によって、分霊たる霊なる人間は、幽体をつけたまま、幽界において生活する。
この幽界も肉体界(現界)と同様に、様々な生活があり、段階がある。
それは、幽体に溜め込まれて蓄積された想いの通りに実現されていくことになる。
この人の想いが、憎しみに満ちていれば憎しみに取り囲まれた生活をする。
愛深き想いの人ならば、愛深き想いの人々と共に生活をする、というようになる。
従って、その蓄積された様々な想いにしたがって、幽界の段階は限りなく分かれているが、大別すると、天界、人界、地界の 3 段階に分けられる。
上位の天界は、愛深き人、物欲少なき人、執着少なき人など、神の心に近い人々が住み、さらに細かい段階に分かれている。
人界とは、肉体界における普通人であり、平均点の人々の生活圏である。
地界は、愛に背く者、物欲深き者、執着強き者、自我の強い者、怠惰な者など、神の心に遠い者が、その業因縁を消滅させられるために住む世界である。
人界、地界(この世界はお互いの幽体が見えて、その点は肉体界と同じである。ただ、すべてにおいて肉体界より速度かが速く、善悪とも、思うことがすぐに実現する)においては、業因縁の渦(うず)から脱しようとしても、念波の周波数が肉体界より細かいので、肉体界以上に業因縁の渦は急速に回転する。
そのために、その業因縁の渦中にある場合には、なかなか、その渦を抜け出すことができない。
その渦の輪を抜け出すためには、一度、想いを停止すること、絶対の精神統一に入ることが必要である。
すなわち、神にのみ心を集中して、いかに業因縁の念が自己の周囲を回転しても、見向きもしないことであり、その精神統一の深さに従って、蓄積された想いの消滅の仕方が異なり、同時に、自己の住む世界(波動圏)が高くなる。
言い換えれば、いかなる辛さも、苦しみも、自分に都合が悪いことが出てきても、それは今、自分を取り囲んだ業因縁が消え去ってゆく姿であると見て、ただひたすら、神との統一感に浸(ひた)れ、ということで、これは肉体界と同じである。
ただ、肉体界のように、業因縁が緩慢にあらわれる世界とは違い、激しく、急激にあらわれるために、なかなか、その苦しみに耐えることができない。
これに鑑みる時、肉体界で生活する間に、できる限り自分の業因縁を消し去っておくことが、幽界で同じ業因縁を消し去るより、どれだけ楽かわからないのである。
例えば、100 万円の借金(業因縁)をした人が、肉体界においては、5 万円ずつの月々の分割払いで済むとすれば、幽界では、一度に 100 万円を支払わなければ、さらに 100 万円の利息がつく、という具合である。
幽界(人界、地界)では精神統一が最大の悟道の法であるが、もう 1 つの悟法は守護神の指導に素直になることである。
肉体界で、守護霊、守護神の助けがあるように、同じく、幽界においても、守護霊、守護神の助け(主に守護神)の導きがあるので、これに素直に従ってゆくことが、自己を救う良い方法なのである。
この場合には、自己の目の前の利益(りえき)を超えて導かれることが多いので、たとえ、守護神の導きが自己に不利なように見えても、素直に従うべきである。
この場合でも、肉体界において、常に守護霊、守護神に感謝していた人は、非常に益することが多いのである。
このようにして、幽界においてある程度浄化されると、再び肉体界に誕生して、また、さらに異なる生活の経験をして、何度もこのような経験を繰り返して、次第に高度な生活に導かれて、ついには、天界に至り、神格を得て、神界に住み、あるいは、覚者(仏)となって、肉体界、幽界の指導者となるのである。
結局、人間はその人自身が、すでに過去世から蓄積してきた悪想念を、いかに巧みに消し去るかによって、その人の運命が異なり、高度になってゆく。
桶(おけ)が汚水で一杯になっていたら、人は必ずそねぬ水を捨てて、新しい水に汲み変えるであろう。
しかし、人間は、自分の運命の汚水である悪想念をそのまま流さずにおきたがるものなのである。
なぜならば、その悪想念である汚水がこぼれると、その人の生活に不幸や病気が起こり、その場が汚れるからである。
かといって、次々と、不幸や病気への恐怖や恨み、怒りなどの悪想念である汚水を流し続けたたならば、桶からは常に汚水がこぼれ続け、その場は汚水だらけになり、いたたまれなくなるであろう。
この汚水を無くすには、まずは、良い想いや愛と感謝といった、清いきれいな水をその桶に注ぎ込むことが、第一に必要であり、それと同時に、その場の拭き掃除をすればよいのである。
人間には、こうした忍耐力と勇気が必要である。
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これらを読んでわかることは。
いくら、生きとし生けるものの死を何度も目の当たりにしても、肉体人間の死が、幽界への移行、あるいは誕生である、と心から認識できない限り、恐怖心を払拭するのは、できないのではないか、ということです。
つまり、そう簡単には肉体人間の死を諦観できないのではないか、ということ。
もう 1 つは、こうした想いと行いの輪廻転生を通した因縁因果の転回は、やはり、精神統一なり、祈りなり、自力修行をしないと、簡単には消失させることはできないのではないか、ということです。
これをいとも簡単に克服できるとは思えないんですけど。
まあ、あとはお読みになる方のご判断にお任せ致します。
なお、経文があのような表現になっているのは、やはり、肉体人間は、時間の経過とともに少しずつ衰えてゆき、いずれは死を免れないんだよ、とお釈迦さんが言いたかった、と読めると思います。
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①追記: 2021/04/28 02:17
②追記: 2024/04/27 16:58
③追記: 2024/04/27 21:03
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。