おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

728_ひしみー149

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 727_ひしみー148 ) の続きです。

ちょっと話を混ぜっ返すようで申し訳ないのだが、ひろさんの述べたことと、これから述べることについて、独自の視点からとらえ直すことにしたい。

ひろさんのお考えは、私の見る限り、あくまでも唯物論だ。

というのも、ひろさんはお釈迦さんが弟子を取り、教えを施して、悟りを開くまでの方法、すなわち、ひろさんの言うところのお釈迦さんの教導方法の普遍妥当性を検証するために、つまり、出家修行者の一番厳しい修行をしている元修行仲間の五比丘のような人達から、その他の在家信者までを、プロとアマのように分けて、そのお釈迦様の悟りを開くための教導方法の是非を検証しようとしているように見えるからだ。

そして、こうして分類したすべての人々に、お釈迦さんの方法論で悟りを開けるようになれば、お釈迦さんの教えの普遍妥当性は立証された、と言いたいのだろう。

そこで、前回 ( 727_ひしみー148 ) 見たのは、悟りを開くには最も近い位置にいると思われる、出家をして、遊行者となり、日本の僧侶とは異なり妻帯もしない出家修行僧、すなわち、元修行仲間の五比丘をプロ、それ以外の出家修行僧その他をアマと定義して、かつてのお釈迦さんの修行仲間であった彼ら五比丘が悟りを開いたことを持って、少なくともプロには、その普遍妥当性が検証されたとしていた訳である。

そして、その他の人々にお釈迦さんの方法論の検証を広めて考えよう、という話になっていた。

つまり、ひろさんは、お釈迦さんの定めた特定の修行を修めさえすれば、誰しもが悟りに到達できるか否かをテストするという、あたかも化学の実験の再現性を検証するように、すなわち、唯物論でお釈迦さんの方法論をお考えになっている。

だから、唯物論なのである。

従って、そこでは肉体人間の魂の永続性から来る、輪廻転生を通した過去世の積み重ね、特に、この世で修行をすることに匹敵する過去世における肉体人間としての想いと行いの積み重ねとなる、過去世の因縁をまったく考慮に入れていない考え方となっている訳です。

私独自の考えをおおざっぱに言ってしまうと、お釈迦さんの教導方法をいくらやったところで、過去世の因縁によっては、お釈迦さんの方法論をもってしても、悟りを開くことはできない、と思われる。

ひろさんは、次節 ( ・アマチュアの青年への教導 ) の冒頭にお書きになっているが、かつてのきわめて厳しい修行をしていた元仲間の五比丘でさえ、その教導には数ヶ月はかかっただろう、としている。

すなわち、以下の通り(改変あり)。
「釈迦が五比丘の教導にどのくらいの時間を要したか、仏典にその記述はない。我々が想像するより他はないが、おそらく、数ヶ月はかかったであろう」と。

お釈迦さんの悟りを開くための教導で、最も短期間で済むと思われる元修行仲間の五比丘でさえ、悟りを開くためには、(ひろさんの推定になるが)数ヶ月もかかるのである。

従って、これ以外の水準のその他圧倒的大多数の修行僧や在家の人々は、悟りを開くための教導には、はるかに時間がかかると考えるのが妥当である。

ところで。

お釈迦さん在世当時の約 2500 年前は、いくら都市が発展し始めてきていたとはいえ、それから数百年、あるいは、現代に至るまでの生活に比べたら、はるかに簡素で、生活の利便性も低かったと考えられる。

例えば、現代社会のように、様々な欲望を満たすための環境が整っていない、まだまだ未整備な社会環境だと考えられるのである。

生活が簡素であるということは、様々な余分な欲望充足の手段も少ないということであり、気持ちを平らに保ちやすく、想いを乱され難い環境だとも言える。

つまり、数百年後の後世や現代に比べたら、修行に没頭しやすく、悟りを開き易い環境にあったと思われるのだ。

それにもかかわらず、元々悟りを開くかなり高い素養を備えたお釈迦さんの元修行仲間の五比丘でさえ、数ヶ月もかかっているのである。

悟りを求め、仏教という独自の道を切り開いた無師独悟の開拓者(パイオニア)であるお釈迦さんは、悟りを開くまでに約 6 年の歳月を要したとはいえ、そこから自分よりももっと素養の低い、境涯の低い人達に対して、お釈迦さんは教導という形で、易しいレールを敷いてあげた訳だ。

いわば、悟りを開いた境涯から、お釈迦さん独自の視点による、誰にでも通用する、お弟子さんのために、悟りへの最短距離の道筋をつけた訳だ。

だから、お釈迦さんが自ら悪戦苦闘して悟りを開くまでに至った時よりは、はるかに効率的で、汎用性が高く、時間のかからない方法になっているはずだ。

そんな最適とも言える方法と、五比丘の素養と、修行には適していると思われる簡素な時代背景という、恵まれた条件の下でさえ、悟りを開くまでには数ヶ月もかかっているのである。

やはり、古の当時とはいえ、悟りを開くことは、一大難事業だったと考えざるを得ない。

何が言いたいのかと言うと。

お釈迦さん在世当時でも、それ以降の現代に至るまでの長い間にも、悟りを開くことができた人は、開拓者(パイオニア)であるお釈迦さんほどではないにしろ(=お釈迦さんが悟りまでの近道を作ってくれたから)、それなりの過去世の因縁、つまり、悟りを開くに相応しい過去世での修行経験に相当するたくさんの経験(=これを仮に過去世要因と名付ける)を経てきて、この世に生まれた人達だと考えられるのである。

だから、この過去世要因を満たせない限り、どんなにお釈迦さんの方法論をもってしても、悟りを開くことができない人は、悟りを開くことができずに生涯を閉じるのであり、悟りを開く(=成道)は、来世以降に持ち越しになる、と考えられるのだ。

つまり、この世の歴史が始まって以来、悟りを開いた人達は、目には見えない、この世の顕在意識ではわからない、過去世要因を満たした人達だからこそ、悟りを開いた、と考えられるのである。

つまり、お釈迦さんが道を拓いた悟りへの最短ルートをもってしても、過去世要因を満たせず、一生懸命修行に明け暮れても、それなりに悟りを開けないまま、生涯を終えた人達が、歴史上にはたくさんいた、と考えられるのである。

だから、お釈迦さん在世当時を含めて、歴史上悟りを開いた人達は、お釈迦さんに巡り会う、そして、お釈迦さんの教導を受けることも含めて、すべてそれなりの過去世要因を満たした人達だったと考えられるのである。

だからこそ、それぞれの今生で悟りを開いた、と。

考えてもみて欲しい。

この世には、厳然たる著しい生まれつきの差がたくさんある。

千差万別(億差兆別?)に。

容姿から、健康面から、才能から、性質から、何から何まで異なっている。

外見上は、ほぼ瓜二つに見える双子でさえ、必ず性格が異なっている。

誰一人として、ありとあらゆる面が同一という人間は存在しない。

同じ人間という存在でありながら、こうまで相違があるのはなぜなのか?

今生まれた氏素性をはじめとして、ありとあらゆる面が異なるのは、なぜなのか?

神様の存在を肯定するにしても否定するにしても、そもそも、この世の中の事象には、原因(因縁)と結果(因果)という、一定の法則があるのか、どうか?

神様の存否はともかくとしても、何らかの法則がある、と考えるのが自然だろう。

そうすると、この世の不平等・不均衡で、およそ理に適わないカオスな有り様を、そのまま全肯定する訳にはいかなくなる。

この世にある、様々な理に適わない、カオスな状況(=結果=因果)には、そのようにさせている、何らかの原因(=因縁)をどこかに求めなければ、辻褄が合わず、法則があるとは言えないことになってしまうからだ。

ここに、その抱く想いによって原因(=因縁)を作り出す人間の輪廻転生というたくさんの生まれ変わりの時間差で、このように不規則で、到底、平等とは言えない世の中が、結果的に作り出される、と考えれば、それなりに筋が通る、法則があると言えることになる。

ひろさんの唯物論のお考えは、例えば平均的な偏差値の大学入試なら、どんなに勉強ができない学生でも、必死に勉強をすれば、誰でも合格できる、という話と同じだ。

さしずめ、お釈迦さんの教導方法が入試に当たり、これさえ通過することができれば、誰でも悟りを開くことができると言っていることと同じだからだ。

しかし、私は、悟りを開くということは、お釈迦さんの教導を履修すれば、誰もが合格できる性質のものとは違うと思うのだ。

つまり、お釈迦さんの教導方法を機械的にパスさえすれば、悟りを開けるとは限らない、と考えられるのである。

お釈迦さんの教導で、悟りを開いた人達も、その実は、過去世要因があるからこそ(=過去世での修行に匹敵するそれなりの積み重ねがあるからこそ)お釈迦さんに出会っているし、過去世要因があるからこそ、お釈迦さんの導きで悟りを開いた、と考えられるのである。

つまり、お釈迦さんの教えは、必要条件ではあるけれど、過去世要因を満たさないと十分条件にはならない、と考えられるのである。

悟りを開いた人達には、例外なく、すべての人にそれなりの過去世要因があった、逆に言うと、過去世要因が満たされなければ、お釈迦さんの教導方法でも悟りを開けない、と考えられるのだ。

極端な言い方をすると、普通の私達の目には見えない過去世要因を度外視して、今生だけの機械的な努力だけで突破できる大学入試と、
過去世要因が濃密に影響する成道(=悟りを開くこと)は、機械的な努力だけで突破できる大学入試のようなものではない、と考えられるという訳。

とは言うものの。

以上は、私の勝手な考えなので、ひろさんは、こうした過去世の話はまったく持ち出さずに、お釈迦さんの教導方法を悟りを開くための十分条件とお考えのようなので、次回からは、その前提で話を続けることにします。

長く、横道に逸れた話をして、すみませんでした。

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①追記: 2023/12/02 13:13
②追記: 2023/12/02 13:22
③追記: 2023/12/02 13:35
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

727_ひしみー148

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 726_ひしみー147 ) の続きです。

ひろさんによると、
「(適宜改変あり。以下、同様)ともかくも 5 人の弟子達が悟りの世界に到達して、この世に阿羅漢が 6 人となった。それで、釈迦の教える「方法」の普遍性が証明された訳であるが、ちょっと引っ掛かるのは、 5 人はすでに出家修行者であったことだ。いわばプロフェッショナル(以下、プロと略)である。プロにはその「方法」が通じても、アマチュア(以下、アマと略)にそれが通じるだろうか?その点が、気がかりと言えば、気がかりである」
となっている。

ひろさんは、プロとアマに分けたのは、お釈迦さんが入滅してから 200 年ほど過ぎてから、修行僧が遊行をしなくなり、寄進された土地に定住するようになって以来、今では遊行をしないので、出家ではない、と言いたいらしい。

一般的な僧侶(外国のこと?)はそのままでいいが、日本の僧侶は妻帯しているのも、違う(プロとはいえない)と言う。

だから、ひろさんは、こうした一般的な僧侶や日本の妻帯をしている僧侶は、在家扱いとしてアマに分類したいようにも見える。

プロの出家修行僧は、あくまでも、遊行をする者であり、妻帯をしないものである、と。

つまり、ひろさんは、お釈迦さんが教えを説く対象を、あくまでも便宜的な観点から、プロとアマに分類して、その教えの習得具合を考察したいらしい。

この論法で行くと、お釈迦さんの最初の修行仲間であった 5 人の比丘は、修行に専念しているから、間違いなくプロと言えることになる。

そして、お釈迦さんは、こうしたプロの修行者を教導できたと位置付けている。

つまり、ひろさんはお釈迦さんが教えを施す対象者を、出家修行者の比丘をプロ、他方、出家しても遊行せず、妻帯する僧侶をお釈迦さんの教えの習得具合の観点から、在家信者のアマとして、二分した訳だ。

大別すると、
・プロ→遊行して、妻帯しない出家修行僧
・アマ→定住して遊行せず、妻帯する出家修行僧
のように。

では、お釈迦さんは、それ以外の大半のアマをどう教導するのか?について、ひろさんは以下のようにして結んでいる。

「問題は、アマである。果たして、釈迦はアマを教導できるのであろうか?。・・・。案ずることはない。アマの方(ほう)から釈迦に接近してきた」と。

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追記: 2022/12/01 04:30
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

726_ひしみー147

10 初めて法輪を転ず

・この世に阿羅漢が六人となった

前回 ( 725_ひしみー146 ) の続きです。

ひろさんによると、お釈迦さんの教導によって、5 人の比丘のうち、カウンディニヤが悟り境地に到達できたこと、そして、残りの 4 人の比丘も次々と悟りの境地に到達できたことが、お釈迦さんの方法の普遍妥当性が立証された、とのこと。

それが、律蔵のマハーヴァッガに「かくてこの世に六人の阿羅漢あり」と書かれているそうだ。

意外に思われる方がいるかもしれないが、実は、お釈迦さんが悟りを開き、こうした修行仲間を次々に導いた初期の段階では、お釈迦さんの呼称は「阿羅漢」となっていた(律蔵)。

後に、お釈迦さんが、「仏」や「如来」という尊称が使われて区別されるようになり、「阿羅漢」という呼称はもっぱらお釈迦さんのお弟子さんで、悟りを開いた者だけの呼称に変わった。

ひろさんは、これはお釈迦様さんの権威づけが進行した結果だとしている。

「仏」はサンスクリット語の「ブッダ」の音訳語で、真理に目覚めた者の意で、お釈迦さんの呼称に使われていたが、当初は同じく「ジナ」という、サンスクリット語で、煩悩に打ち勝った者を呼ぶ呼称も使われていたとのこと。

つまり、初期の頃のお釈迦さんは、「ブッダ」と呼ばれると同時に「ジナ」とも呼ばれていた。

以前書いたように、仏教と同時期発祥のジャイナ教の開祖マハーヴィーラも、「ジナ」とも「ブッダ」とも呼ばれていた。

このように、仏教でも、ジャイナ教でも、最初期の段階では、共にその開祖のことを、「ブッダ」あるいは「ジナ」と呼んでいた。

ひろさんによると、そのうちに、この 2 つの宗教は互いを意識して、仏教は「ブッダ」、ジャイナ教は「ジナ」を好んで使うようになり、結果としてそれがそれぞれの宗教の専売特許となったとのこと。

「ジナ」は「ジャイナ」と同じであり、サンスクリット語の「バウッダ」は「ブッダ」と同じなので、開祖の呼称に「ジナ」を採用した教えが「ジャイナ教」、「ブッダ」を採用した教えが「バウッダ教」=「仏教」になったということらしい。

なので、開祖の呼称のつけ方次第では、「仏教」が「ジャイナ教」に、「ジャイナ教」が「仏教」になっていた可能性があったかもしれない、とのこと。

ちなみに。

ジャイナ教の文献によると、お釈迦さんのお弟子さんになったシャーリプトラ(舎利弗。しゃりほつ)も「ブッダ」と呼ばれているとのこと。

ひろさんは、これをもって、最初期の仏教教団では、お釈迦さんは、お弟子さん達と同次元の存在で特別扱いはされていないので、「律蔵」で、お釈迦さんと 5 人の比丘を合わせて「六人の阿羅漢」と呼んでいたのも当然だとしている。

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追記: 2023/11/03 00:23
〜訂正内容〜

本文を訂正しました。

725_ひしみー146

10 初めて法輪を転ず

・釈迦が発見した古き道

前回 ( 724_ひしみー145 ) の続きです。

お釈迦さんは、サンユッタニカーヤのナガラ(都城)と題される一経で、次のように言っている。

「私は過去の正覚者が、悟った真理に至る古道・古怪を発見した」と。

つまり、誰もがお釈迦さんの発見した古道・古怪を歩めば、誰もが真理という古城に到達できる、ということらしい。

その古道・古怪とされるものが、八正道である。

すなわち、
1.正見・・・正しいものの見方。
2.正思・・・正しい思惟・思索。
3.正語・・・正しい言葉。
4.正業・・・正しい行為・行動。
5.正命・・・正しい日常生活。
6.正精進・・・正しい努力。
7.正念・・・正しい注意力。心の落ち着き。
8.正定める・・・正しい精神統一。
の 8 つである。

そして、ひろさんは、これらの「正しい」は「中道」をあらわすものとして、「中道」の具体的な実践方法が「八正道」だとしている。

律蔵のマハーヴァッカには、お釈迦さんが鹿野苑で、最初の弟子になった 5 人の比丘に、出家修行者として避けるべき両極端に近づかない中道を真理という古城に至る、古道・古怪として説いたとされている(以下、読みやすさを考え、段落分けなどの改変をしている)。

すなわち、
「修行者らよ。
出家者が実践してはならない 2 つの極端がある。
その 2 つとは何であるか?
1 つは、諸々の欲望において、欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
他の 1 つは、自ら苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
真理の体現者は、この両極端に近づかないで、中道を悟ったのである」
と。

・・・。

以下、下品で乱暴な言葉遣いになるが、ご了承頂きたい。

何ですか、これは。

いかにも、もっともらしく聞こえるし、表面的には納得する人も多いのかもしれない。

しかし。

すでに述べてきたように、八正道の概念分類の仕方にも、「正しい」の意味づけがされないのにも、はなはだ疑問がある( ( 569_仏言葉ー100 の補足 ) に既述)し、両極端を避ける中道に至っては、何をわざわざ当たり前のことを言っているの?としか思えない。

中道。

修行者たるもの、怠けて遊び呆けるのなんて、ダメに決まっているし、ガリ勉のような修行のやり過ぎはダメだと言いながら、その寸止めの境界についても、何も触れておらず、境界は曖昧模糊になっているままだ。

「高尚ならず、ためにならぬものである」って、皆さん本当にピンときますか?

何だか、当たり前過ぎる気がするし、肝心の中身が漠然としていて、具体性がなさすぎますよ。

ひろさんは、中道を、「いい加減」と易しく言い換えている(ひろさんは「パラフレーズ」とお書きになっている)、 5 人の比丘がかつて修行仲間として苦行をやめた自分(お釈迦さん)を見捨てた時のことを引き合いに出して、「いい加減はマイナスイメージではない」だの、お風呂の湯加減に例えて、説明したりもされているが、どうもピンとこない。

とにかく。

ひろさんは、お釈迦はんが、彼ら 5 人に「中道」を歩ませることによって、お釈迦さんのたどり着いた古城=真理に、同じようにたどり着けると信じて、彼らを教導した、としている。

ひろさんは、さらに、お釈迦さんは、決して難しい教理・教学を教えたのではなく、その推測は間違っていないと確信されているそうだ。

724_ひしみー145

10 初めて法輪を転ず

・釈迦が発見した古き道

前回 ( 723_ひしみー144 ) の続きです。

また、ちょっと脱線します。

前回と前々回 ( 722_ひしみー143 ) 、お釈迦さんが悟りを開いてから、その教えの伝道に至るまでの経緯に納得できない旨を述べて、できれば過去の文章をご参考のほどを、としましたが、やはり不親切だと思うので、ここにそれら 2 つの過去の文章を引用しておくことにします(改変あり)。

・( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 )
・( 559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝 )

の 2 つです。

以下、それぞれを引用します(なお、細かい訂正日時などは省略します)。

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558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質

第 6 章 心が晴れるためには

90.自分を救う

眼に見えるものも、見えないものも
遠くのものも、近くのものも
すでに生まれたものも、これから生まれるものも
生きとし生けるものをことごとく幸せにせよ

(スッタニパータ)

今枝さんの注釈によると、
この経文が含まれている
八 慈しみの経(八、慈しみ) (カッコ内は中村さんの本にある該当箇所の名称)は、
第一章 蛇の脱皮の章 (第一 蛇の章)
八 慈しみの経 (八、慈しみ)
に収められているもので、
第二章 小さな章 (第二 小なる章)

三宝の経 (一、宝)
こよなき幸せの経 (四、こよなき幸せ)
と並んで、テーラヴァーダ仏教(*1)では最も重要視され、一般にも知られ、唱えられる、ということ。

中村さんの訳では、この経文の末尾が「幸せであれ」となっている。

佐々木さんによると、仏教は自己救済の宗教だが、自己救済のためには自己中心の考えを捨てることが必要で、それは結果的にあらゆる他者への利他の願いになるという意味で、仏教は自己を救うために、他者の安楽を願う宗教、であるとのこと。

何だかわかりにくいですね。

追って追われて、わけがわからない(私には)。

自他一体感。

自分も他人も一緒。

そして、
それは一切合切の、
目にも見えないあらゆるものまでも。

こうやって、慈しみの心を及ぼす。

まずは。

自分と他人は一緒。

それはなぜ?

この世には、
そんなふうには思えないことが、
数えきれないほどにあるのに。

むしろ、他人は疎(うと)ましい。

この世は、(今のところ)競争社会だから、
他人は競争やマウントの相手ではあっても、
これを尊重しているほどの余裕はない。

それに、
そもそもとして、
目に見える肉体として分かれていて、
しかも、
誰一人として同じ性格の人はいない。

必ず個性が異なっている。

もちろん、これは、 過去の時代に過ぎ去って行った人達も、
これから未来に生まれてくる人達にも、
同じように当てはまる。

仏教は自分で自分を救う宗教だとされる。

これは、言い方を変えれば、
自分を真に人間として大事にすること、
しかも、
自分の肉体人間としてのこの世での唯物論的な利害得失を最大化する意味ではなくて、
自分を仏性をそなえた仏(神様ですね)の命を頂く者として、
心を正しく修めて(浄めて)、
気高く生きていくための宗教、
と言えるだろう。

それは、
基本的には、
自分だけが悟ることができればいいはずの宗教であり、
自分だけが涅槃に至ることができればいいはずの宗教であるはずではないのか?

それなのに、なぜ、他人を尊重するの?

自分が気高く生きていくためには、
便宜的に他人を尊重しなければならないから?
それとも、
他人を尊重することが、自らの人格を高めることに含まれるから?

一応、
便宜ではないとして、
自らの人格を高めることに、
なぜ、他人を尊重する、
大事にすることが含まれるの?

この世では、
無限億万(?)の、
数えきれないほどの人間関係があって、
憎み合ったり、
いがみ合ったり、
争い合ったり、
することもたくさんあるのに。

これは、
親子、兄弟、夫婦、親戚、友人、知人、赤の他人の間を問わず、
あまねくすべてにわたってあることです。

それなのに、なぜ?

しかも、肉体人間間同士だけではなくて、
この他者を大事にする慈しみの思いを、
目に見えるものから目に見えないものにまで、
もっと言うと、
五感に感じることができないものまでも及ぼすと言う。

それはなぜ?

仏教の「空」にしてもそうなんだけど、
こうした話を見てくると・・・。

やっぱり、霊性の観点から見ていくことが必要だと思います。

すべては神様があらわしたものであり、
目に見えるものから、
目に見えないものまで、
この世からあの世(そして、霊界から神界まで)、
ありとあらゆるものは、
神様のあらわしたもの、
すなわち、
神様のもの、

ハッキリ言わないから、
何となくモヤモヤしている、
スッキリしないんじゃないですか?

すべては神様のあらわしたもの、
すべては神様のもの、
と言えば、
スッキリしますよ。

わかりにくく、
中途半端な、
縁起を持ち出さなくても済みます。

肉体人間の個人個人は、
どんなに個性が異なり、
馴染めなくても、
違和感があろうとも、
反目していても、
それぞれの肉体を生かしているのは、
他ならぬ神様のお命であり、
従って、
肉体人間の本質は、
神様の分けられたお命にある、
ということになれば、
どんなに離れて隔てられた関係に見えようとも、
神様の命の観点からすれば、
同じ神様の子供としての、
兄弟姉妹になるからです。

ならば、
本来的には、
愛し合い、慈しみ合うのは、
自然なことであり、
あるべきことであり、
当然なこと。

本来はこのようにあるべきなのに、
すべてを隔ててしまっているのは、
肉身を得てこの世で肉体人間となり、
自己保存の本能により、
自他を分けてエゴに走るようになり、
たくさんの過去世で積み重ねられた、
お互いを隔てる悪しき因縁が、
積み重ねられてきたから。

ならば、
これらの因縁は、
因縁を果たす(受け入れる)か、
浄めて消し去ることができれば、
すべてはなくなる。

なぜならば、
あくまでも有限だから。

肉体人間が、
この世に降ろされてからだから、
無限億万(?)の悪い因縁が、
溜まっているかもしれないけれど、
それにしても、
有限であることには、
変わりがない。

そして。

目に見えるものから、
目に見えないものまで、
五感に感じることができなくても、
その存在が認められるものは、
やはり、
すべては神様のあらわしたもの。

このように考えてくれば、
神様のおつくりになられた、
五感に感じることができなくても、
ありとあらゆる存在を、
尊重する、
愛する、
慈しみの心を及ぼす、
ということは、
神様のおつくりになられた、
ありとあらゆるものを、
尊重して愛する、
ということになります。

つまり、神様讃歌です。

自らも神様のお命を内に頂き、
ありがたさを噛みしめ、
そして、
その神様がおつくりになられた、
ありとあらゆるものを、
外にたたえる。

以上のようにとらえることができれば、
慈しみのお経というのは、
その本質が、
神様をたたえているお経である、
神様讃歌である、
ということになります。

もしも仏教が、
輪廻転生や守護の仏様(神様)以外に、
創造主としての絶対神としての神様を、
今ここにハッキリと認めるならば、
仏教は神様讃歌をする宗教、
とまで言えることになります。

お釈迦さんが霊魂を無記としたり、
仏教は絶対神のような神様を認めないように言う(梵天帝釈天といった神様は、こうした位置づけにはなっていない)から、
スッキリしないところが出てくるんですよ。

以上は、あくまでも、個人的な感想ではありますけれど・・・。

五井先生の本によると、お釈迦さんが神様を打ち出さなかった(説かなかった)のは、お釈迦さんの在世当時には、迷信のような宗教もたくさんあり、爬虫類や動物を神様として拝んだ宗教がたくさんあって、念力が出たり、念力合戦があったりもした。

そこで、お釈迦さんは、いっぺん神様というもの、絶対者である造物主という形も全部なくして、自分で悟る方法を教えた。

自分自身が仏であり、神様とは言わなくても、神様(仏様)から来ている命だから、その命を覆っている業、自分勝手な思いや自我欲望(肉体人間としての自らの利害得失を最大化することだと思われる)を取りさえすれば、本当の(神様(仏様)としての)自分が出てくるんだ、と教えて、他からくる神様の力などを説かなかった、ということらしいです。

だから、このスッタニパータの慈しみのお経というのは、その本質においては、
神様讃歌と考えることができます(一般的な仏教関係の人は決してそうは言わないでしょうけど)。(*2)

以上、個人的なものの見方ではありますが、スッタニパータに収められている、慈しみのお経を元に、仏教の本質を考えてみました。

このように見てくると、仏教の「自分を救う」というあり方には、自然なこととして、他者を尊重する、大事にする、救うことが、当然に含まれてくることになります。

なぜならば、既述のように、肉体人間は、その誰しもが、神様(仏様)のお命を頂いて生かされているものであり、その本質は、肉体ではなくて、神様(仏様)のお命を生きている者ということになるからです。

そして、
肉体人間として抱く想いが、
神様の世界から流れてくる光を遮(さえぎ)らない、

それは、
自らが生きていることと、
自らが神様に生かされていることとが、
完全に一つになった時、
すなわち、
自らが神様のお命を生きている者だと、
心の底から感得できて、
神様もよおしに、
ありとあらゆる、
想いと行いができるようになった、
その時にこそ、
本当の悟りが得られる、
と考えられます。

~~~~~

(*1)テーラヴァーダ仏教~スリランカやタイやミャンマーなどの出家教団によって継承された南伝の仏教。上座部仏教とも言う。

初期の仏教形態で、主にこれらの東南アジアで信奉されているという。

(*2)もしも、万が一、慈しみのお経の作者さんが、こうした神様讃歌をおおっぴらに言えないために(お釈迦さんが、いっぺん神様というもの、絶対者である造物主という形も全部なくして、自分で悟る方法を教えたことに配慮したため)、絶対者である造物主の神様を出さなかったのではなく(つまり、意識的にこうした神様を避ける形をとったのではなく)、無意識的にこうした神様を出さずに、あのような慈しみのお経を作ったのだとすれば、「結果的に」神様讃歌の内容になったことになります。

そして、縁起もそうですが、サンユッタ・ニカーヤでも、古くは非我、後の無我の心境のお話も、このお釈迦さんの経緯に配慮したために、なされたことだったとしたら・・・。

果たして、真相やいかに。

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559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝

第 6 章 心が晴れるためには

91.正しい教えはわけへだてなく

また全世界に対して
無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし
上に、下に、また横に、
障害なく(*1)怨みなく
敵意なき(慈しみを行うべし)。

(スッタニパータ)

(第一 蛇の章 八、慈しみ より)

だいぶ前に、
中村さんの原始仏典のところで、
お釈迦さんが自力で悟った後、
その内容を布教するつもりがなかったところに、
偉い神様である梵天様の説得にほだされて、
布教におもむいた話がありました。(*2)

このように、
元々は、
お釈迦さんは自らが悟った内容を
教えとして布教するつもりはなかった(とされている)。

自分の悟った内容は、
あまりにも深遠で、
一般の人々には理解できない、
と思っていたことなどが、
理由としてあげられることがあるが、
本当のところはどうなのだろうか。

五井先生の宗教観・神様観からすれば、何だか言い訳がましく聞こえないだろうか(もちろん、五井先生はお釈迦さんを崇拝しているし、私のようなこうした批判めいた内容は一切言ってはいない(=書籍に書いていない)から、これはあくまでも私の独断と偏見になるのだけれど)。

佐々木さんは、
お釈迦さんが、
この梵天という偉い神様の懇願(中村さんは懇請としていた)を
受け入れた時点で、
仏教が、
「自分のためだけの宗教」
から
「人々のための宗教」 へと変貌した、
自利から利他という
慈悲を基本とする宗教に変貌した、
としているが、
これは、いくぶん、
こじつけには見えないだろうか。

前回 ( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 ) も書いたしたように、
もしも、仏教が、お釈迦さんが、
元から創造主としての絶対神
認めていたとするならば、
こうした逸話(?)は、
なくてもいいことに
なりはしないだろうか。

極論かもしれないけれど。

はじめに結論を言うと、

私が感じたのは、
お釈迦さんは、
何らかの意図を持って(いたと仮定すると)、
霊魂を無記としたり、
非我や無我や縁起を使っていたのは、
創造主としての絶対神を明らかにしないまま、
かなりの外堀からの説明をせざるを得なかったために、
あのような難解きわまる話に
なっていたのではないか、
ということです。

非我あるいは無我にしてもそうです。

私達のこの肉体はどこから持ってきたの?
両親?
じゃあ、その両親はどこからきたの?
と、
どんどん、たどって行ったらどうなりますか?
一体誰がどんな形で肉体人間の元をつくり出したんですか?

肉体があれば生きている?
ならば寿命の尽きた人はなぜ動かなくなるんですか?
肉体に働きかける何らかの力が、
なくなってしまった、
と考えるのが自然ではありませんか?

つまり。

この肉体も、
肉体に働きかける力も何もかも、
あらかじめどこからか与えられている、
みんな対価を支払わず、
無償で与えられている、
ということです。

何らかの絶対的な力のある存在によって。

そう考えざるを得ませんね。

だから、無我なんです。

元からの自分のものは何もない。

最初っから、自分のものは何もない。

自分の力で生まれてきた訳でもなければ、
自分で成長して行く訳でもない。
自分で自らの(肉体人間の)寿命を限る訳ではない(自殺を除く)。

これらも、
肉体に働きかける何らかの不思議な力の
働きかけによっている。

つまり、
肉体にまつわるあらゆることが他動的になされていくから
無我ではあるけれど、
力や物質を与えた何者かは存在する、
働きかける何らかの摩訶不思議な力はある、
ということです。

それを、
その絶対なる存在を「ない」、「無記」としなければならないために、
相当に苦しい回り道を強いられているのではありませんか?

この地球さんをはじめとする、
私達肉体人間を取り巻く環境もそうです。

同じように考えることができます。

創造主としての絶対神を、はじめから認めていれば、こんなに難しい回り道をしないのではありませんか。

ただ、
この神様というのは、
特定の形に頑なにこだわったり、
えこひいきをしたり、
そうした神様ではありませんね。

ありとあらゆるものに、
あまねく命をはじめとした資本を与え、
あとはそれぞれの立場とやり方で、
その資本を生かしながら生きていく。

元は与えましたよ、
あとはあなたがたで、
私の子供としてふさわしいように、
やって行きなさい、
とする神様ですね。

このような神様に感謝を捧げ、
そのあらわしたものすべてをたたえる。

これはきわめて自然な、
ごく当たり前の帰結なのではありませんか。

そうして同じ肉体人間が、
神様の分けられたお命を本質とする点で、
誰も彼もが同胞であるとわかれば、
いかに困難を伴うと思っても、
愛を施すべきだ、
困っている、苦しんでいる人がいるならば、
救いに立つべきだ、
と自ずと思うのではありませんか。

お釈迦さんが、
何もわざわざ梵天様に ほだされることはなくても、
梵天様が、
わざわざ出向かれて
何度もお釈迦さんをご説得なさらなくても・・・。

ありとあらゆるものをあらわした
神様をたたえ、
そして、
その世界の中心的な役割を担う、
同胞である肉体人間が迷っているならば、
世の中が乱れているならば、
救いに立とうとするのは、
当然の成り行きではありませんか。

つまり。

佐々木さんの言うような、
自利から利他ではなくて、
元から利他なのではありませんか。

もう悟りを開いてしまえば、
神様の子供として、
あるべきことを、
自然に行うように、
なるのではありませんか。

以上のように考えてくると。

お釈迦さんが、梵天様とのやりとりで、
世の中をよく見渡した上で言ったとされる、
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。
人々を害するであろうかと思って、
私(わたくし)は微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」

という言葉は、どうもピンときません。

他のおかしな信仰をしている人々がいれば、その信仰を自発的にしろ、何にしろ、やめさせるのは本人にかなりの苦痛を強いる場合があるから?

だったら、はじめは辛くとも、おかしな信仰から離脱させることこそが、最終的には本人のためになるんじゃないの?

まあ、それまでの本人の因縁因果を見越して、今生での救いはひかえた方がいい場合もあるのかもしれませんが・・・。

輪廻転生の卒業のためにも、善は急げなんじゃないですかねえ・・・。

それと。

訳の問題かもしれないけれど、耳ある者「ども」とか、梵天様に対して対等以下に呼びかけているととれかねない「梵天よ」というセリフといい、なんかしっくりこないんですよねえ。

私の偏見かもしれませんが。

自然に救いに立った、とする方がはるかに素直でわかりやすいと感じるんですけど・・・。

といった感じです。

これは、あくまでも、 机上の空論にしか過ぎませんが、
もしも、お釈迦さんが、仏教が、
創造主、造物主としての絶対神
(暗黙の)前提としているならば、
こうしたことが考えられるのですよ。

慈しみのお経(一四三 ー 一五二)を
ざっと見た限りでも、
本来なら肉体人間が自らの心を修め(浄め)て悟りを得ることが何よりの大事なことなはずなのに、
一切のものは幸せであれ、
のように出てくるのは、
いくぶん、
脈絡のない話が唐突な印象を抱いてしまうのですよ。

もちろん、
悟りを開くことができれば、
肉体という、
欲望に引きずられがちな
大変重い足かせを持ちながらも、
神様(仏様)そのままのみ心をあらわせる
素晴らしい人格をそなえた肉体人間になれるのだから、
対人、そして、自然をはじめとする
ありとあらゆるものに対して、
慈しみの感情は
ごく自然に抱くでしょう。

そうした素晴らしい肉体人間に
なることができれば、
神様讃歌を唱えるのには、
違和感がないことは確かです。

しかし。

あそこまで、高らかに 謳い(漢字はこれでいいのかな?)上げる
というのは、
元から創造主としての絶対神に対して、
こうした気持ちがあったから、
とは取れないでしょうか。

それとも。

自己をきわめて悟りを得ることに
注力し過ぎた(?)
仏教のあり方に対して、
言い訳として(?)、
反省として(?)、
多少の揺り戻しが必要だ、
と考えたのでしょうか。

いや・・・。

やっぱり、言い訳や反省では、
一つの系統だった宗教の教えとしては、あまりよろしくないような気がします。

悟りを開いた者として、
ごく自然に唱えると言うよりは、
自らも神様のお命で生かされ、
そして、生きていくための、
ありとあらゆる環境を
ご用意して下さっている、
与えて下さっている、
しかも、
こんな素晴らしい
大自然をはじめとしたものを、
という感謝の気持ちの発露ととらえた方が、
違和感がないように思うのですよ。

あくまでも、個人的な感想ですけれど。

こうした、
神様をたたえずにはいられない、
そうした気持ちの発露ととらえた方が、自然な感じがするんです。

なので。

慈しみのお経で、
神様讃歌を謳うのも、
唐突ではなくて、
きわめて自然な成り行きであり、
むしろ、
当然のことだったのだ、
むしろ、そうしなければならない、
こうした内容は、
経文には存在しなければ、そもそも、おかしいはずだったのだ、
と勝手に解釈しています(ただし、量はすごく少ない。讃歌はあまりゴテゴテとはするべきではない、ということか)。

このように考えてくると、今回のこの中村さん訳の経文は、
創造主としての絶対神を、おおっぴらにはできない、暗黙の前提としかできないから、
絶対神の存在を
公に明言することはできないが、
本当にありがたいのだから、
感謝してもしきれるものではないけれど、
とにかく感謝をしなさい、
と読み取れます。

「無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」という中の、
「無量」という言葉には、それがあらわれている、と思います。(*3)

しかも。

神様とそのあらわされたもの
(神様が形を変えたと考えればこれも神様と看做(みな)せる)は、
目に見えるところも、
目に見えないところにも、
果ては宇宙にまで遍満している、
神詰まりに詰まっている。

上記経文の言い回しの、
「上に、下に、また横に、障害なく(*1)怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
は、
神様が
あらゆるところにある(偏在する)ことを、
神様があまねく遍満していることを、
わかっていたからこその言葉だ、
と考えると、
きわめてスムーズに理解できます。

よく納得できるお話です。

こうした予備知識(?)がないと、
前後左右上下を慈しむ、
そして、
礼拝まですることの意義は、
わからない気がするのですよ。

と、ここまでくると、また一つのことに気がつきます。

それは。

「慈しむ」という言葉についてです。

試しに、これを字引で引いてみると。

・慈しむ~いつくしむ~愛し、大切にする。可愛がる。
(用例)わが子を慈しむ。

・慈しみ~恵み。慈愛。
(用例)仏の慈しみ。

これらのことからわかるのは、
慈しむ、慈しみ、というのは、
相対的に見た場合、
上位の者が下位の者に対して抱く感情、
といった意味合いがあることです。

慈しみのお経 は、
肉体人間の方から神様と、
その神様のあらわされたもの(=神様と看做せる)に感謝を捧げる、
謳い上げる、
という意味合いがある
と考えられるのです、

肉体人間は、
神様の分けられたお命を頂いていますから、
本質は神様ですが、
これが感得できていない、すなわち、悟れていないのが一般的です。

ということは、
肉体人間は
感謝の対象である神様と、
そのあらわされたもの(肉体人間も含めて)よりも、
下位に位置する、
と思われるのです。

そうなると、

この慈しみのお経という名前よりも、
感謝のお経を意味する表現(名前)に変えた方が、
いいような気がしてくるのです。

それに。

たとえ、悟れていたとしても、
目に見えてわかるように、
下位の立場ではなくとも、。、
悟れていない時と同じように、
感謝がわいてくるのが、
神様の命を頂く者のしての、
素直な姿だと思います。

神様と、
そのあらわされたものの
そのすべてをたたえる、
感謝を捧げる、
すなわち、
下位の肉体人間から、
上位の神様と
そのあらわされたものの
化身ともいうべきすべてをたたえて、
感謝奉(たてまつ)る。

これならば、
慈しみのお経というよりも、
感謝のお経という意味を持つ名前の方が、
ふさわしいのではないか、
ということです。

まあ、
ゴタゴタと、
うるさいなと、
お感じになられた方も、
おられるかもしれませんが、
気がついてしまったので、
ここに記しておきます。

もちろん、
私の文章ですから、
多分にいくつもの、
内容の間違いがあるかもしれません。

その点は、あらかじめご承知置き下さりますよう お願い申し上げます。

~~~~~

(*1)障害なくとは、場所のことを言っている。場所に関しても分け隔てなく、限界を設けないしないことを意味する。

(*2)中村さんは、原始仏典の中で、梵天という神様のことを、世界の主とか、世界創造の神だと前半で書いている。

しかし、後に、仏教では世界を創造した神は認めていないと書いていて、完全に書いてあることが矛盾している。

錯綜している。

中村さんは、もうだいぶ前にご逝去されていますので、どちらがご本意だったのかは、いまだにわからないままです。

(*3)無量~むりょう~はかりしれないほど多いこと。
(用例)感無量。

723_ひしみー144

10 初めて法輪を転ず

・釈迦が発見した古き道

前々回( 721_ひしみー142 )の続きです。

その前に。

くどいようですが、前回 ( 722_ひしみー143 ) の復習を少々。

前回は、お釈迦さん在世当時の悟りを開いた人の身の処し方について、五井先生の宗教観というか神様観からすると当然に抱かざるを得ない疑問と、お釈迦さんが悟りを開いてから教えの伝道に至るまでの経緯が、どうもとってつけたように見えてしまい、しっくりこないことを書きました。

本来なら悟りを開いて、この世に別れを告げるのが一般的(?)なはずのところを、お釈迦さんが特別な人だから(つまり、仏教という新しい教えの開祖だから)何かと理由をつけて、本来なら辻褄の合わないはずのところを、あれやこれやと理由となる事実をつなぎ合わせて、教えの伝道までの道筋を作ってあるかのように見えたからです。

五井先生のような宗教観や神様観なら、ごく自然な形で、悟りを開いた後に、その教えの伝道に向かい、たとえそれが当時の世界の人々すべてを救えなくても、お釈迦さんの命のある限り、教えの伝道に生涯を捧げるのは当然の成り行きになるはずです。

だから、あのお釈迦さんの悟りを開いた段階から、その教えの伝道に至るまでの経緯がしっくりこない、ピッと一本筋が通っていない、のように書いた訳です。

で、今回からは中道にかかわる話なのですが、これがまた、煮え切らないというか、すっきりしない話なんですよ

仏教を奉じる人々からは、何を言っているんだコイツは、と怒られてしまうかもしれませんが、自分のような仏教のド素人には、ハッキリ言って、訳がわからないんですよ。

あまりにも、話が漠然とし過ぎていて、つかみどころがなくて。

ひろさんのご本を読んでも、他の一般的な仏教の本を何冊か読んでも、この印象は変わりません。

だから、あまり気がすすまないし、また、いろいろとケチつけ道中みたいになってしまうかもしれませんが、その点はあらかじめご承知置き下さい。

前置きが長くなったので、勝手ながら今回はここまでとします。

ご了承下さい。

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①追記: 2023/09/21 19:25
②追記: 2023/09/21 19:31
③追記: 2023/09/21 22:43
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

722_ひしみー143

10 初めて法輪を転ず

唐突で申し訳ないのだが、以下に個人的な独断と偏見(=五井先生の著作から学んだ宗教観を独自に敷衍または拡大解釈・拡張解釈したもの)で、お釈迦さんが悟りを開いてから、その教えの伝道に至るまでの経緯を、きわめておおざっぱに振り返っておくことにする。

最近のいくつかの回で、言外にはほのめかしていたつもりではいたのだが、やはり、断片的に本音を書くだけで、結果として奥歯に物の挟まったような言い方になるのは、自分としても煮え切らない感じを残していたからだ。

たとえ暴論になってしまったとしても、本音はハッキリと書いておくべきだと思うので、ごく簡単に記したい。

今まで、中村さんや、S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)や、佐々木さんや、ひろさん(これらの方々の説をとりあえず仏教の通説とする)のご本を、五井先生の著作から学んだ独自の解釈も踏まえて、主に初期仏教を中心にいろいろと見てきた。

ひろさんのお話(これを通説と看做(みな)す)によると、お釈迦さん出現までの古代インドの修行者のあり方は、悟りを開いたら入滅する、涅槃に入る、いい方は悪いが、死ぬということになるらしい。

しかし。

これは納得できない、おかしな話である。

なぜならば、上記五井先生の宗教観からすれば、これはおかしいと思うからだ。

五井先生の宗教観からすれば、肉体人間(=唯物論に縛られている私達がごく普通に動物と同じように認識している人間のこと)の本体(本質)は、(普通は目には見えない)あくまでも肉体人間を有機的生命体として成り立たせている、この肉体に命を与えて生かしている神様の分けられたお命そのものが人間だと思われるからだ。

すなわち、神様の分けられたお命=霊魂魄こそが本当の人間、霊なる人間こそが本当の人間ということになるからだ。

そうなると。

私達肉体人間は、この世に肉体をまとって、この世を生きていく便宜上、自己保存の本能を付与されてはいても、本来は真善美と愛に悖らずに、気高く生きていかなければならない存在であることになる。

すなわち、肉体人間の本質は神様である以上は、悟りを開くとは、私達はあくまでも神様の分けられたお命を頂いて生きている神様の子供に他ならないのであり、
動物と同じようにこの世に形としてあらわれてはいても、この世を生きていく便宜上わが身を守る自己保存の本能を付与されていても、
真善美と愛に悖らず、気高く生きていくべき存在であることを身を持って感得して、そのように自然に生きていくことができるようになることが、悟りを開いたとも言えるからだ。

肉体人間は、肉体をまとっていても、神様の分けられたお命そのままを、肉体に映す・あらわすこと、すなわち、神様の子供であること=神様そのものに他ならない存在であることをあらわすことが悟りを開くことになるからだ。

従って、神様は愛に悖らない、愛深い存在なのであるから、自分だけが悟りを開いただけで、他の悟りを開けない他の人々、特に世の中の病争貧苦に苦しんでいる人々を置き去りにして、自分だけがこの世に別れを告げてしまい、はいおしまい、というのは納得できないのである。

だから、
お釈迦さんが世の中の人々がお釈迦さんの水準からすると程度が低すぎる(=教えには困難が伴う)から、伝道をしたがらない話も納得できないし、
梵天様という神様がわざわざ懇請をされて、あたかもお釈迦さんが三顧の礼にほだされたように伝道におもむくようになった話は、
どうもすっきりとはしない、後付けたような話に思えて仕方がないのだ。

という訳で、お釈迦さんが悟りを開いてから、あの梵天様の懇請によるお釈迦さんの伝道までの話は、いろいろな話をつなぎ合わせて、何となく辻褄を合わせたように思えるのである。

五井先生的な神様のとらえ方、すなわち、肉体人間のとらえ方ならこのような不自然さを生じることはない。

なぜならば。

神様を本質とする肉体人間ならば、
悟りを求めて、いまだ悟りを開けない修行者に対しては、悟りを開けるように導くだろうし、
そうした悟りを開くための修行生活に縁がなくても、世の中の病争貧苦に苦しんでいる人がいれば(四門出遊の話もわざわざあることだし)、彼らに修行は施さなくても、少しでも何とか救いに立とうとするのは、悟りを開いた宗教家として、当然の成り行きとなるはずだからだ。

たとえ、悟りを開くように指導して脱落者が出たとしても、
世の中のすべての人を救えない結果になってしまったとしても、
後世にたすき(バトン)を渡すべく、その悟りを開いた宗教家としての残りの人生のすべてをかけて、その肉体人間としての寿命が尽きるまで、精一杯の教えの伝道に努めるのが当然の帰結となるはずだからだ。

そんな訳で、仏教の通説とされる、お釈迦さんが悟りを開いてから、梵天様が懇請されたところまでのあの経緯は、個人的には納得できないのである。

(追記)
神様の話を始めると、神様の存否やそのかかわりも含めて、では悟りを開くとは何か、真理を悟るとは何か、となって、当然人間とは何か、という問題に行き当たらざるを得ない。

お釈迦さん(加えれば当時の古い仏教の経典も)が、いっぺん神様というもの、絶対者である造物主という形も全部なくして、自分で悟る方法を教えたことなどに関しては、つまり、お釈迦様さんが神様を全面に押し出さなかった(そして、仏教の経典もこれに配慮した)可能性については、 ( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 ) ですでに触れているので、気になるお方は、お手数で申し訳ないのだが、そちらをご参照頂きたい(もしお時間があれば、 ( 559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝 ) も)。

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追記: 2023/09/14 05:20 他
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

何度も何度も訂正をして申し訳ございません。
今回は細かい訂正日時の記載は省いています。
ご了承下さい。