おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

012_コメント11

1-KI-150905-1

たとえ、相手がどんな仕打ちをしようとも、自分は誠意を尽くし、女性を決して(内心はともかく、あからさまには)傷つけない。

素晴らしいことですよね。

これを機会に、更に一歩を進めて、怨みに報いるに徳を以てす(老子の報怨以徳です。これに対となる?孔子の以徳報怨=雪辱しろ、義に則って復讐せよ、とは全く違います (*1) )、でいきましょう。

祈ってあげて下さい。

あの女性達の天命がまっとうされますように、と。

それと、ビッチという言葉を使うのは、やめて頂きたいのです(出来れば、クソ女も、ユル股も)。

ビッチを外人さんが聞いたら、誤解を招く恐れがありますし、何よりも KI さんの使い方では、あからさまな侮蔑語ですから、この際、やめてしまいましょう。

KI さんのお人柄にも相応しくないと思います。

以上は、霊性の開発の観点から、申し上げております。

また、内容はどうであれ、復讐という言葉を使うようでは、因縁因果を断ち切ることにはなりません。

KI さんが、地味で堅実な霊性の開発の研究を始められることを、願ってやみません。

お調べ下されば、侮蔑語や嘲笑が、輪廻転生の中でいかなる意味を持つかが、わかってくるはずです。(*2)

私もこれを知った時には、ちょっとショックで、しばらくは唯物論しか重視しない世間を恨んだというか何というか・・・。

なぜなら、お寺にあったと言われる地獄絵より、日頃からのよからぬ行い(今回の例で言えば、侮蔑、蔑視、嘲笑など)に対する抑止効果が、はるかにあるのではないか、という内容だったからです。

何でこんな大事なことを早く教えてくれないんだ、知っていたら絶対に注意したよ、と。

しかし、過ぎ去ってしまったことは、仕方がありません。

残念ですが、どうしようもないのです。

僅かでも、修正の可能性があれば、徹底的に努力するしかありません。

もし、軌道修正されるなら、一刻も早い方がいい。

そう考えています。

あるいは、

生まれ変わり(輪廻転生)なんかあるもんか。
死んだら死んだで、それまで。
そんなのあるわけないさ。この肉体だけだよ人生は、と思われるでしょうか?

それとも、

神様はいるんだ。
私達に命を始めとして、あらゆるものを与えて、愛情を持って見守って下さる、すべてのすべてである絶対の存在なんだ。
だから輪廻転生を通して業を積んでしまった私達のその業の消滅をはかり、守護の神霊様を配して見守っておられるのだ。
どんなに、この世が乱れ、矛盾に満ち、悪が栄え、絶望視したくなろうとも、
と考えることができるでしょうか?

あとは KI さんが、何を信じどうされるかの選択となります(一般の書物には、同性たる女性著者でさえ、ビッチを書名に用いているものがありますね。中身を見ると、ちょっと好き者、あるいはかなりの好き者を描いたもの、更には、女性一般に当てはめたもの、といった感じで、きわめて当たり前というか、お気軽にビッチを使っているように感じました。あれらを見る限り、彼女達は、霊的な内容や輪廻転生にほとんど関心がないように思います)。

KI さんがいつの日(来世以降?)か、わかって頂けることを願いつつ。

ちなみに、ある男性が超美人を諦めた話が本に出ていました。

実業家の F さんの話ですが、KI さんの話にも一脈通じるところがあるので書いてみます(内容は、大まかにしか覚えていませんので、大筋だけになりますが、悪しからずご了承下さい)。

F さんの職場に掃き溜めに鶴といった美人が入ってきたそうです。

F さんは、理想が高過ぎるかもしれないと思いつつも、憧れて、誠心誠意、一生懸命アプローチしたそうですが、まったく相手にされなかった。

相当な努力家の F さんが、諦めざるを得ないほど、彼女はきわめて冷淡な反応しか示さなかったそうです。

しかも、まもなく彼女は見てくれだけのロクでもない男にひっかかり、職場を去っていった。

ややあって、彼女はその男に有り金を巻き上げられた挙げ句、捨てられた。

その後、F さんと再会した彼女は、彼がかつてあれだけ憧れた相手だったこともあり、誘いのモーションを何度かかけてきたそうです。

しかし、F さんは彼女の相談に乗ったり、親身になって仕事の世話はしたけれども、心を鬼にして決して彼女の誘いには乗らなかったとのこと。

彼女は、その当時でも、十分若くて美しかったので、F さんも内心は未練も皆無ではなかったようですが。

そのうち、彼女はまた容姿だけの男にひっかかり、F さんの前から姿を消したそうです。

彼女の行く末が気にかかるとして、F さんはこう結んでいました。

つまるところ、彼女は男を見る目がないのだから、どんなに美しくでも、深くかかわったらロクなことにはならない、と。

ある意味、見切り千両でもありますね。

チャンスがあっても自らを厳しく律し、見返りを求めず無私の心で誠意を尽くす。

下心は潔く断ち切る。

なかなかできないことだ、と思いました。

見守りに徹し切った KI さんの話に、よく似ているな、と思い出したので、引いてみました。

なお、F さんの話で、簡単に体を許す女性のことについても出ていましたので、ついでにご紹介しておきます。

F さんがまだ駆け出しの頃、評判のプレイボーイ(今ならヤリモク)の先輩に、女性への声のかけ方を質問したことがあるそうです。

それも、手当たり次第で、どれだけモノにできますか、という感じで ( F さん自身、若気のいたりとはいえ、何とも愚かな質問をしたものだと反省されていました)。

その先輩は、怪訝な顔をして、こう答えたそうです。

俺は、そんな街頭募金のような引っかけ方は、考えたこともないよ。
下手な鉄砲じゃないが、そんな簡単にひっかかる鳥は、ロクな鳥じゃない。
・・・おいおいわかってくるさ、と。

しかし、これは昭和で貞操観念がそこそこあった時期の話ですし、はるかに古いザビエルの時代の貞操観念が緩かった素描も考えると、何とも言えない部分があります。

ただ、心その他はよくても、体の相性問題が起きることも皆無ではない(*3)ので、ある程度のお試しとしての小手調べが必要なのか、それとも、これすら厳しく認められないのかは、ちょっとわかりません(心がピッタリなら、体もバッチリ、魂も探し求めてきた相手同士、とすんなりいくならいいんでしょうけど)。

ただ、生まれつきの素質や技巧だけで、相手を漁りまくるのは、明らかに征服欲や快楽欲の発散であり、他人を傷つけて、真善美に悖(もと)りますし、ちょっとした挨拶代わりとか、カジュアルセックスというのも、やはり違う気がします。

個人的には、心、そして魂が合う相手と添えるなら、体も十分に上手く合わせるための、やさしい方法が確立されれば、いいように思うんです。

末長く、お互いを慈しみながら、暮らしていける一助として。

正直、男女の恋愛をも含めた肉体交渉と霊魂魄の修行の峻別をどの程度まで厳しくすべきなのかは、現時点では勉強不足なのでよくわかりません(少なくともエゴにしか終着しない、乱交礼賛の動物生態援用論だけは絶対にダメだと思いますが)。

まあ、よほどのことがない限り、相思相愛を前提に、お互いをどう高め合っていくか(完結するにしろ、中途にしろ、お互いを磨きあっていく修行)が基本であることは、揺るがないと思います。(*4)

相手選びが自由なのはありがたいですが、欲に流されず、精神的に堕落しないように自らを律することも必要ですね。

なので、よき伴侶を得るために、自らの運命をよりよく運んでいくためにも、霊性の開発をしながら守護霊様に全てお任せすれば、安心はできるでしょうね。

もっとも、

まだまだ欲にまみれたい?輪廻転生?キツい修行が何世にもわたろうと、そんなの構わないさ。

輪廻なんか知ったこっちゃないよ。

だいたい、霊魂なんかないし、生まれ変わりなんか、単なる方便の一種に過ぎないのさ。

今だけ、今この肉体の欲望充足だけが絶対なのさ、

という人にはどうでもいいんでしょうけどね(でも、こういう人も、いつかは必ず霊性の開発の道に入ると思いますよ。ただ、たくさんの修行が加算されて、時期がずっと後になるというだけで)。

~~~~~

(*1)新釈 中国古典怪談 岩谷薫著 (ヒカルランド) P.129 以降を参照して下さい。

孔子老子の違いをよく示唆する事例ですね。

(かなり大雑把な言い方かもしれませんが)細々と権威と秩序の維持に血道をあげる孔子に対して、

そんなものは自然に調和(もちろん、欲望と恐怖で締め上げたような秩序などではなく、皆が尊重し合い、讃え合う調和です。真善美に悖らない調和ですね)がとれて維持されてこそ本物なのだ

という老子、という具合に。

あのように、取り違えたのが、いかにも日本人的なのかもしれません。

または、あまりに老子の思想が深遠過ぎるので、さほど理解が広まっていなかった(今も?)のかもしれません。

そこで、間違って孔子が引用されてしまったのかもしれません。

作家の瀬戸内寂聴さんの引き揚げの回想にも出ていましたが、たとえ思惑の片隅はどうであれ、施した徳は絶大です。

いかなる能書きも、よき行いには敵わない一つの事例と言えるかもしれません。

ただ、お人によっては、境遇は様々で、矢追純一さんはまた少し違った経験をされたようです。

(*2)お調べ頂こうかどうか迷いましたが、便宜なども考え、別項を設けて書いておきます。

概要をお知りになりたい場合は、( 013_コメント12 - おぶなより ) の ( 1-KI-150905-2 侮蔑語や嘲笑と輪廻転生について ) をお読み下さい。

(*3)2つ実例を読んだことがあります。努力しても多分歩み寄れません。

下品で残酷な内容なので、書くのは控えさせて頂きます。

(*4)昭和の宗教家の五井昌久さんは、次のように言われています(一部抜粋)。

肉体そのままで仏陀(お釈迦さん)であるわけがない、肉体そのままでキリストであるわけがない。

肉体(人間)というものは罪悪深重の凡夫と神の子の合の子です。

本当の人間じゃないんです。

だから人間っていうのは仕方がないものさ、人間だからこれくらいのことはしょうがない、若いうちは楽しいんだ、そういうふうにいうでしょ。

それは間違いです。

人間だからこそ立派でなければならない、

人間だからこそ清らかでなければならない、

人間であるからこそ、愛と真(まこと)があるんです。

動物じゃ仕方ない、

蛆虫(うじむし)じゃ仕方ない。

蛆虫どもじゃしょうがない。

本当の人間というものは迷っているものではない。

汚れているものではない。

神であり、キリストであり、仏陀(お釈迦さん)である、と。

これを参考に考えると、やはり利己的に貪る、

すなわち

男性=タネをバラマキたい
=自分の遺伝子の拡散
=恋は名前をつけて保存、

女性=よりよい個体を残したい
=良質遺伝子逢着まで乗換したい
=恋は上書き

は、安易に許されるべきではなく、厳しい結論になるのかなあ、と。

これらの人間の動物的な本能は、子孫を絶やさないために、神様が様々な考慮の下に便宜上、与えられただけなのかなあ、と。

今の時代からすると、ちょっと厳し過ぎるかもしれませんが、本来はこうだ、と。

なお、女性の恋は上書きについて、とある個性派女優さんの話を読んだことがあります。

かつて深い関係(セックスをした関係)にあった男性に再会しても、もうほとんど何とも思わない、と。

ところが、男性の方はまだ親しいままの気分で昔のように付き合えそうだと思っている様子(こちらの事情などおかまいなく嬉しそうにしていて、無論こちらの変貌にも何ら気づいた様子がない)で、すぐにでも一緒に暮らせそうだと勘違いした雰囲気でいる、と。

恋について、
男性=名前をつけて保存、
女性=上書き、
の典型的な例かもしれません。

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①追記: 2024/03/19 20:58
②追記: 2024/03/19 21:07
③追記: 2024/03/29 01:38
④追記: 2024/04/19 18:18
⑤追記: 2024/04/19 18:23
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。