398_法悟28-15-3
第 3 週 賢者の道を歩む
1 智慧があれば人間らしく生きられる
学ぶことの少ない人は
牛のように老いる。
彼の肉体は肥えるが、
智慧は成長しない。
(一五二) (第11章 老い より)
前回( 397_法悟28-15-2 )の続きを書きます。
前回は、素朴な疑問提示だけにとどめたので、S さんの設問も参考にしながら、考えていきたいと思います。
前々回( 396_法悟28-15-1 )の最終部に書かれていた S さんの設問は、以下の通り。
ブッダは智慧の大切さを説く。
そこで、
(a) 生きるとは何か。
(b)自然の法則とは何か。
(c)(人間は)何のために生きているのか。
(d)生きることに意味があるのか。
(e)(生きることに)意味があるなら、なぜこんなに苦しいのか。
これらにつき、私達はもっと考え、今の人間よりも優れた生き方を実践するのだ、としていた。
そして、
智慧を成長させる道を歩めば、あなたも牛呼ばわりされない優れた人間となる、
ともしていた。
そして、以下に挑めともしていた。
(f)心の優しい人になること
(g)無常を観察すること
(h)執着を捨てること
(i)生きることは何かを発見すること
これらは、重なる部分も多々あるので、まとめてしまいたい。
(1) 肉体人間の誕生
→ (a)、(b)、(i)
(2) 大自然のあり方
→ (b)
(3) 肉体人間の意義
→ (a)、(c)、(d)、(e)、(i)
(4) 肉体人間の目標
→(a)、(c)、(d)、(e)、(f)、(h)
(5) 肉体人間の進化(精進)
→(c)、(d)、(e)、(f)、(h)、(i)
以上の 5 つについて勝手に考えたい。
(1) 肉体人間の誕生
以前、すべての世界は、神界、霊界、幽界、現界(この世)の 4 つに大別されると書いた。
各界には、それなりの波動の物質がそれぞれにあるらしい。
現界は、神界に比べてまだまだ未開発で、神界の形を現界の波動レベルで映し出す、あらわすことが始まり。
やはり、神様の形を型どった肉体人間をつくって中に入り、これにあらかじめ与えておいた周辺の大自然の環境の中で、この世を開発していく形となった。
ただし、肉体人間の寿命は(原則として)数十年であり、粗い波動の物質世界であるこの世で生きていくために、自己保存の本能という、元の神体にはなかったものが追加された。
そうして、肉体人間として、限りない輪廻転生を繰り返しながら、この世を開発して、元の神様の世界のように平穏で調和の取れたものを目指して開発していく。
ただ、神様の分けられた命としての霊なる人間が本来の人間で、各肉体人間にわかれて入っても、本質としては同じ、同じ神様の子供としての兄弟姉妹という意識が、自己保存の本能と繰り返された輪廻転生のために薄れてわからなくなってしまった。
この世で、個別に分かれている肉体人間としての個々がまったく別の個体、という意識になってしまった。
この個々の肉体こそが、この個々の肉体人間こそが、人間なんだ、となってしまい、元々は神様の命の分かれ同士の兄弟姉妹の同胞であるとはわからなくなってしまった。
そうして、人間=肉体人間だ、となると、今度は、自らとその近しい者だけの利害得失だけを念頭に、その利益の最大化を目指して生きていくようになってしまった。
従って、与えられている資源や、それぞれに築いていた権益を巡って、相争うという、そういった歴史が繰り返されてきた訳です。
(2) 大自然のあり方
肉体人間は、神様の分けられた命としての分霊が本体だから、自由意志がある。
神様の命を与えられ生きているだけではなくて、神様の命を宿しているからこその、創造力や計画・実行・省察などの、動物や植物とは、明らかに異なる高い知性が具(そな)わっている。
だから、神様の命で生かされてはいるけれど、被造物ながらも、創造性を持つ。
しかし、動物や植物やその他の大自然は、神様から命を与えられてはいても、神様の命そのものとは異なる。
だから、神様から与えられた命そのままには生きている、生かされているけれど、肉体人間ほどには、知的に生きることができない。
魂で言えば、動物ならば魂魄だが、人間は神様の命そのものなので、霊をつけて、霊魂魄と区別する。
従って、肉体人間以外のものは、神様から与えられた命そのままに生きているということになる。
当然、大自然もその部分となる。
五井先生(の本に)よると、こうした命そのままに生きているのは、祈りの姿というそうです。
(3) 肉体人間の意義
内容が、(1) とも重なるが、肉体人間は神様の世界を、この世に映し出すようにあらわすべく、長い時間をかけて、輪廻転生を繰り返し、この物質レベルの地球さんを開発して、肉体人間の社会も、神様の世界のように、平穏で調和の取れた素晴らしいものになるように、目指して開発していく。
それが、肉体人間の存在意義です。
ただ、そのためには、人間=肉体人間観にもとづく、自らとその近しい者だけの利益を最大化することだけに追われるような生き方、具体的には肉体にまつわる五感の欲望を満足させることだけにとらわれたような、エゴだけの生き方、動物に近い生き方をしていては、肉体人間の本来の意義には、程遠いものになる。
従って、霊性を開発して、肉体を持ちながらも、その想いや行いが、神様のみ心に沿ったもの、真善美に沿ったものになるように、段階的に少しずつ精進して(過去世を通して業想念をたくさん溜め込んでいるので、いっぺんには無理だから)生きていくべきということになる。
そうして、霊性が開発された肉体人間となり、神様の子供としての霊なる人間に近づいていくことができれば、神様の世界にふさわしい肉体人間として、進化していく形となる。
(4) 肉体人間の目標
神様の世界を、この世に映し出す、つくり上げること。
そのためには、既述のように肉体を持ちながらも、神様の子供としての想いと行いができるような、立派な肉体人間になるように努力していく、ということになる。
(5) 肉体人間の進化(精進)
肉体人間として、この世に生を受けるのは、原則として、たくさんの輪廻転生を通して溜め込んだ、業想念を減らして(最終的には浄め去って)いくこと。
そうして、神様のみ心に沿った立派な人間を目指して、この世で喜怒哀楽や艱難辛苦を経験しながら、生きていく。
地球さんの開発の一端を担うのとは別に、自らが過去世で溜め込んだ業想念を消してゆく=過去世の因縁をこの世で因果として果たしてゆくことを並行していく訳です。
生きていくことが苦しいのは、生老病死は肉体人間として生きていくために、仕方がないこととしても、病争貧苦は、過去世の因縁、特に業想念をこの世で因果として果たす、償いとして受けることになるから、起きてくる訳です。
この世で業想念を消してゆくには、因果としていろいろなことを受けるだけではなくて、過去世の因縁が因果としてこの世にあらわれる前に、浄めて消せるものならば、消しておいた方が霊性の開発も早くなるので望ましいし、自分もこの世ではその分楽になる。
そのためには、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をしていくのが、最適となります。