おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

013_コメント12

1-KI-150905-2-侮蔑語や嘲笑と輪廻転生について

ご自分でお調べ頂こうかと思いましたが、勿体つけてお手間をとらせるのも不親切なので、少しだけ答を書いておきます。

ただ、読まれる以上は、どうしても潜在意識に入ってしまうので、あまり書きたくはないんです、本当のところ。

ある程度、否定的な内容にならざるを得ませんので。

ですが、少しでも早く軌道修正することが、結局は読まれる方のためになると考え、敢えて記します。

どうかご理解下さい。

お願い致します。

私達は、神様の一つの命の分かれです。肉体的には別個になっていますが、本当は一つの命の分かれなのです。(*1)

私達は、神様の分霊(わけみたま)が本体なのです。

その本体である霊(動物と区別する意味では、霊魂魄(れいこんぱく)となります)は、完全円満である真善美に悖(もと)らない神様の命そのものなのです。

ということは、真善美に悖る行いを他者にするのは、他ならぬ自分に行っていることになってしまうのです。

他者も同じ神様の命の分かれ、元々、一つのものなのですから。

本体が完全円満である以上は、真善美に悖る行いは、必ず清算しなければなりません。

特に、他者を浅薄に侮蔑、嘲笑すれば、その反対に侮蔑、嘲笑されざるを得ないほどの大変に苦しい立場(境遇)を、生まれ変わって経験しなければならなくなるのです。

不用意に軽々と発してしまった侮蔑語や嘲笑が、まったく思いもよらない厳しく重いものとなって、返ってくるのです。

これ以上具体的なことは、あまり言いたくありません。

自分が楽で恵まれて、安全な立場にいるからといって、各種の苦難に喘ぐ人を、安易にバカにしたり、侮蔑、嘲笑、ましてや愚弄することは厳禁なのです。

(現世の)今、どうせ火の粉なんて飛んできやしないさ、何を言ってもヤリ逃げだ、かまうもんか、とはならないのです。

神様の命が永遠のものならば、当然、その分霊である魂(霊魂魄)も永続するのですから、汚れは浄めなければならなくなるのです。(*2)

来世以降(直後の来世か、後々なのかは、神様の御心次第になると思います)に、(過去世の記憶が消されていることもあって)いわれのない無実の罪のように、大きなツケとなって返ってくるのです。

俺は(現世=生まれてから今まで)何も悪いことをしていないのに、何でこんな過酷な環境に置かれなければならないのか、と。

このように世を隔てた因果応報、それも侮蔑などの発した言葉や、嘲笑といった仕草が、思いもよらない大変厳しいものとなって返ってくるのです(現世である程度のいわれもない目に遭ったことのある方なら、もしかしたら想像がつくことがあるかもしれません)。

単なる言葉だけ、笑いだけじゃないか、大したことないだろ、は極めて甘い認識だと言わなければなりません。

霊なんかあるもんか、輪廻転生なんてお伽噺(おとぎばなし)のまやかしだ、と思われる方は、一笑に付すかもしれません。

確かに、万人の納得のいく証明は、今のところできませんから、信じるか否かは、読まれた方の判断に委ねるしかありません。

ですが、世の中の著しい不均衡、不平等を突き詰めて鑑みる時、霊(霊魂魄)と輪廻転生を考えなければ、到底納得などできないのです。

唯一、納得できるとすれば、絶対者たる神様そのものが、極めて底意地の悪い悪魔的存在である場合などです。

これならば、人間の同士がぶつかり、どんなに、相争うが、辛苦をなめようが、ニヒルに傍観して楽しむこともあり得るでしょう。

私は、そんなことは絶対にないと信じています。

そうでなければ、この世もあの世も、真っ暗闇じゃありませんか。

救いがありません。

だから、今からでもいい、何となくでもわかった方は、侮蔑、愚弄、嘲笑は金輪際止めにして、早目に霊性の開発に取り組んで頂きたいのです。

KI さんは、どうお考えになりますか。

まあ、私も幼い頃は自分勝手でわがままで、人様の痛みはわからない人間でした。

しかし、経験を積んで、人様が苦しんでいるのを見ると、ああ神様、と思うように変わってきたのです。

人様の痛みがわかるようになるための、魂に染み込ませるほどの厳しい修行が、よほど好きなら別なのかもしれませんが、私はあまり人様に苦しんでほしくないのです。

余計なお節介かもしれませんが、大変な目に遭って学習するより、別途、陰徳を積んだり、修行(霊性の開発)をしたり、人様の苦しみがわかる別の経験なりで、人格を向上させて頂きたい、と思っていますので。

ここまで読まれたら、お察しかと思いますが、この世での不当な仕打ちや、不条理な出来事の多くは、過去世(前世、前々世、・・・)に原因がある、ということなのです。

過去世での真善美に悖る想念と行為のツケが回ってきた、ということなのです。

過去世でしたことなんかわかる訳ないし、何かよからぬこと(想念と行為)をしたなんて、思いたくも認めたくもないのですが、どうしようもないんです。

それを、南無阿弥陀仏の祈り一念、一切の感謝で乗り切り、無為にして光明化する、古(いにしえ)の宗教の達人が、源左さんや才市さんといった妙好人(みょうこうにん)と呼ばれる人達なのです(彼らは自己顕示欲も承認欲求もまったくなく、無心でこのようになっているから、無為自然で素晴らしいということ)。

どんなに、肉体人間自らに都合の悪いことであっても、神様(阿弥陀如来様)のおはからいとして感謝するのは、並大抵の信仰心では、できるものではありませんからね。

当座の願いが叶って順風満帆、あるいは、平穏無事な時はいいけれども、不幸災難が襲うと、とたんにグラグラというのが、一般的な信仰にはありがちなのではないでしょうか。

こういった話は、唯物論しか知らない方には、ひょっとすると、驚天動地、大ショックかもしれません(だから、書きたくなかったんです。私はこれを知った時、それまでの自らの言行を省みて当惑し、恐れおののきましたから)。

なぜなら、未だに、大ベストセラー作家の佐藤優さん(キリスト教にかなり精通している)が、人間が神をつくったとか、動物行動学研究家の竹内久美子さんが、神は実在するのですか、などと、堂々と対談しているような世の中なんですからね。

どんなに、膨大な学問を積んで頭脳明晰かつ博識でも、仕事で切れ者であっても、波乱万丈の人生を歩んで、人々の共感も得、尊敬されるほど経験豊かでも、肝心要の神様の存在を否定するような認識しかいまだに持ち得ていない・・・。

神様に近づくために、いろいろな研究をするはずなのに、動物と人間を同一視したり(どころか、人間に援用までしている)、多面的に人間を探求すると面白い、とますます神様から離れていく・・・。

便宜上、与えられたであろう本能を本質と取り違え、人間が神様から分かれた命であり、その本体が兄弟姉妹である神様の大愛を否定し、肉体=人間の欲望から発する小智才覚の自我の発揮が、この世を乱し、自らを損なうことがわからない・・・。

本当に残念です。

学問はまったくといっていいほどなくても、素直に神様(阿弥陀如来阿様)の懐に飛び込み、かなりの高い境地に達した、古の妙好人、源左さんや才市さんとは、あまりにも違い過ぎます。

昭和の宗教家五井昌久先生は、合気道の開祖植芝盛平先生と話していたそうです。

神様と一つになりきることが大事で、他に問題にすることは何もない、と。

なので、自分が神様の子である、分霊(わけみたま)であることを悟ることが大事で、
逆にいえば、目に見える物質ばかりにとらわれ、神様と人間は別物だと思えば思うほど、同じ神様の命の分かれの兄弟姉妹である他者と違うと思えば思うほど、それだけ悪い、
ということになってしまいます。

五井先生は、神様を知るためには、ただ自己の想いを、神様の中に入れることしかなく、いくら肉体人間の頭脳で考えても、科学的に調べても、わかりはしない、と言われています。

従って、聖道門や浄土門のように、ただ修行あるのみ、ですね。(*3)

それにしても、類い稀な学究経験、実務経験を持ち、あらゆる宗教知識にかなり通暁している方でさえ、ああなのですから、いかに一般には物質崇拝(動物行動崇拝も遺伝子崇拝も含む)の影響が根深いか、ですね。

ただ、一つ注意しておくべきは、社会的地位も、権力も、財産も、学問も、世のため人のため、つまり、世界平和のためにならなければ、形だけのものになってしまうこと。

万物の霊長たる人間が、徳を沢山もらいながら、ただ肉体人間だけの我欲だけに使い果たして、世界平和のためにならなければ、残念ながら、その分だけ逆にマイナスが生じてしまう、ということです。

形だけ、方便だけということは、端的に言ってしまえば、世界平和に何も生かさないで、自己満足に耽(ふけ)っている、ということですね。

我欲の肉体人間の自己満足だけでは、神様の御心に適(かな)わない・・・。

先の侮蔑語や嘲笑のこともそうでしたが真善美に悖らない、完全円満であることは、思いもよらぬほど厳しい・・・。

なので、妙好人の人達のように、念仏しながら頂き直す生活、あるいは、(現代的には)霊性の開発=修行しながら、やっていくしかありませんね。

以上、かなり大まかですが、内容をご理解下さるよう願っております。

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(*1)私達人間は波動の細かい方から荒い方にかけて、順に、神体、霊体、幽体(意識体とでもいいましょうか)、肉体とまとっているそうです。

(*2)霊魂魄の中には、真善美に悖る想念と行為が、過去世になくとも、ある霊系統を浄めるために、敢えて苦難を引き受け、肉体界に降りてくるものもあるそうです。

また、罰が当たったとか、天罰とか言いますが、安易に用いてはいけないんですね(五井先生は、神様は罰を当てないと言っています)。

なぜなら、その多くのものが、思いもよらぬ過去世の因縁に対する因果の可能性が高いのですから。

現世(今、この世の中)のことなら、すぐに責めることができるかもしれませんが、過去世のことなんか(特別な人以外は)誰もわからないんですからね。

それに、過去世のわかる霊性の高い人格者なら、そんなことをほじくり返して責めるような真似は絶対にしませんよ。

大変な思いをして、やっと消えてゆく悪い因果を、再び恐怖として相手の潜在意識に植え付けるのは、絶対にしてはならないことだから。

聡明な人格者なら、傷口に塩を塗るような愚かな真似を、絶対にするはずがないからです。

私達にできることは、寄り添える方なら支えてあげるとか、陰ながらその運命の好転を祈って差し上げるしかないかもしれません。

神様がなぜこのような仕組みをつくられたのかは、勉強不足なのでよくわかりません。

とにかく、私が理解したのは、ここまでです。

(*3)源左さんや才市さんの南無阿弥陀仏の念仏行は、絶対他力浄土門で、世界平和の祈りも、この系統と言えると思います。

自力の聖道門は、現代人にはかなり難しく、現実的ではないので、他力の浄土門が入りやすいと言えるでしょうね。

昔の人は、大変だったなあ、と思います。

今でこそ、各種お経の懇切丁寧な解説書が沢山ありますが、大蔵経(だいぞうきょう=仏教の教典を網羅した叢書)を大きな書店で手に取るとわかるように、お経の本体は、何の注釈もなく、味もそっけもないような、難解(翻訳せず音写したものもあるので、更に難解)な文字列(=白文)が、大挙してズラーッと書かれているだけなんですから。

それに南無阿弥陀仏などのお題目ならまだしも、お経はそれなりに、相当に長いものが多い。

一番手近で、しかも短いのは、延命十句観音経くらいですかね。

かなり短めの、般若心経でも 3 分前後、法華経の中の観音経の偈(げ=サンスクリット語でガーター、詩文のこと)の部分でさえ、早目にしても、5 分半から 6 分かかる。

他は、もっとはるかに長いものが多いですからね。

お坊さんにならない限り、よほどの強い意思がないと、続けるのは大変だったかもしれません。

読み下し文を書くのも大変ですし、意味もまた相当わかりにくいので、素直に読誦(どくじゅ=声を出してお経を読むこと)するしかなかったでしょうけど、これでも結構な意思力がないとできないことだったと思いますから。

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①追記: 2024/03/19 21:35
②追記: 2024/03/29 01:56
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。