おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

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1-KI-151205-2-霊性の開発とその実践

霊性の開発とは、一言で言えば、私達肉体人間の本質が、神様の分霊(わけみたま)であることを感得するための修行です。

ここでは、霊性の開発の具体的内容となる実践方法を記します。

簡単に言うと、世界平和の祈り一念の生活を可能な限り押し進めていくことが、そのまま、霊性の開発の実践となります(他にもない訳ではありませんが、省きます)。

世界平和の祈りは、昭和の宗教家、五井昌久(ごいまさひさ)さんが提唱されたものです。

その昔、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の祈り一念の生涯を送った、妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた人達がいました。

彼らのような信仰の仕方で生活することが、すなわち、霊性の開発の実践そのものになります。

すべては過去世の因縁の消えてゆく姿、あるのは、ただ、神仏のみ心だけなのだと神様(妙好人の人達は、阿弥陀如来様とされます)に感謝しながら、たゆまぬ祈りとともに、生活していくことです。

世界平和の祈りの場合は、各自に専属の、祖先の中で悟りを得た守護霊と、その上に立つ守護神への感謝も加えます。

お経である、一連の祈り言は、以下の通りです(他に読み方がある漢字は正確な読みを、読みづらいものはその読み方を、それぞれカッコ書きで書きました)。

~世界平和の祈り~

世界人類が平和でありますように

日本(にっぽん)が平和でありますように

私(わたくし)達の天命が完(まっと)うされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神(しゅごじん)様ありがとうございます

この祈りは、仕事や家事の合間でも、いつどんな時にしても良く、この祈り言以外、特に形式ばったところはありません。

無論、声に出さなくても、心の中で唱えても良いそうです。

祈りも間に合いそうもない、とっさの危機緊急の時は、五井先生!と呼んでも構いませんと、ご本にありました。

仏教の大乗経典の法華経の 二十五品 (第 二十五 章相当)の観音経に偈(げ、と読みます。サンスクリット語(古代インドの文章語。梵語)でガーター、現代なら、詩のこと)があります。その中で何度も、念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)と、艱難時に観音様を念じれ(呼べ)ば、お救い下さる表現がありますが、あれと同様かもしれません。霊の世界では、時間と空間がないそうなので、すぐに来て下さるんでしょうね。(*)

また、あの野郎(または、あの女)どうしても憎くて憎くてしょうがない、許せん!と言った相手には、とりあえず、あのバカ野郎(または、あのバカ女)が、世界人類が平和でありますように、とする。

あのバカ野郎の想いを持ったままでいいので、世界平和の祈りに切り返してしまえば良いそうです。

はじめは難しくても、祈りが徹底され、深くなってくれば、これも、あの人の守護霊様、守護神様お願いします、あの人の天命が完うされますように、と変わる日が、いつかはくると思います。

この信仰は、アイツが悪い、コイツがバカだ、と人様を責めたり、または、自分を責めたり、ということがありません。責めたり、裁いたりすることも同様です。

そういう想念は業想念(ごうそうねん)といって、後々、主に来世以降に自らに好ましくない形となり必ず返ってきてしまう可能性があるので、オススメできません。

縁があって、この祈りを知ったり、輪廻転生などの霊的真理の探求が好きで、色々と研究している方ならともかく、一般の方は、過去世?消えてゆく姿?何だこれは?と思うかもしれません。

これも、一から説明すると長くなるので、とりあえず霊性の開発の実践とは、

世界平和の祈りを日常生活に取り入れながら、できる限り、真善美に悖らない想念と行為を心がけて生活すること

であり、

そして、その心構えとしては、

宗教は、生活上で実践してはじめて生きてくるものであり、神仏のみ心に沿った行いこそが、すべてである、

とだけ覚えて頂ければよろしいかと思います。

理想は、世界平和の祈りの真っ向ひた押しで、真善美に悖る事態が起きて、想念が著しく乱されそうになったら、

例えば、

悲しみに包まれたら世界平和の祈り、

怒りがわいてきたら世界平和の祈り、

恨みで許せなかったら世界平和の祈り、

病気になったら世界平和の祈り、

と徹頭徹尾、世界平和の祈りの祈りで、祈り倒しまくって、世界平和の祈りの中で生活することです。

要は、真善美に悖る出来事が起こったら、その都度、即、一切合切、世界平和の祈りに切りかえ、沈静化するまで、可能な範囲で祈ることです。

もちろん、こんなピンチの時以外でも、時間の空きがあれば、いつでもどこでも祈れれば更に良いです。

生活に必須な時間以外は、世界平和の祈りに埋もれる位で、理想としてはちょうど良い、と言えるかもしれません。

これは、私達人間は肉体をまとっていても、本来は神の分生命であり、真善美の完全円満性の存在であるために、想念を神様のみ心の、愛と調和に合わせる(実際は、近づけていくケースの方が多いでしょう)べきなので、そのための方法だそうです。

私達の本質が神の分生命である以上は、心に曇りが出てきたら、瞬々刻々、祓(はら)い浄める必要があるので、それを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中で、神様のみ光で消し去って頂くようにする、ということらしいです。

そして、自分の心が常に澄み切って、神様のみ心に通い合うことを目標に、日々精進を重ねることが望ましいようです。

うまず、たゆまず、ある程度祈りを積み重ねていくと、無理に祈らなくても、空き時間に自然に世界平和の祈りをするようになってきます。

本当に慕い、好きで、心にあるなら、わざわざ思い出しませんよね。子供は、遊びに夢中で母親を忘れることはあっても、(通常は)母親が子供のことを忘れることはないように。

なので、わざわざ思い出さずとも忘れずに、心の中でいつでも自然に世界平和の祈りが鳴り響くようになるのが、目指すべき状態であり、最善と言えます。

親鸞さんが、一回の念仏としたのは、このことで、神体、霊体、幽体を含め、守護霊様、守護神様と一体化した祈りを一度でもすれば、あとは神様(阿弥陀如来様)の祈りのレールに乗って道が定まったから大丈夫、という意味だと思います。

そして、妙好人の人達ように、日々の生活を無為にして光明化できるようになれば、かなりの達人と言えるでしょう。

加えて、是非とも忘れずにして頂きたいのは、守護の神霊であり、神様が私達に配して下さった守護霊様と守護神様への感謝行です。

神様が、私達=肉体をまとった人間に、守護の神霊を付けて下さったのは、私達だけに任せておくと、相争って世界が滅びてしまうからだそうです。

過去の歴史や現在からも察せられるように、守護の神霊のご加護があって、何とか滅びずにきている(過去、地上天国化を 6 回試みたようです。今回は 7 回目とか)が、このようになることはわかっていた、と。

だから、ご慈愛として、陰ながらお守り下さる矯正役の守護霊様と守護神様をあらかじめつけて下さった、ということのようです。

守護の神霊様の業想念を浄めて消し去る働きがなければ、私達肉体人間がおびただしく出す業想念が、現界にそのまますべて現象化して現れてしまい、早晩世界は滅亡してしまうので、そのお働きにはよくよく感謝すべきだそうです。

守護の神霊様は、まず普通は目には見えませんし、実感はできないと思いますが、特に身近な守護霊様は寝ずの番でいつも見守り、それなりに守っていて下さるそうなので、そのお力を遺憾なく発揮して頂くためにも、感謝をするのが望ましいそうですから、必ずするようにして下さい。

肉体をまとった私達は、霊が本体であり、これが本当の人間だとはまずわからないし、どうしても物欲や肉欲に振り回されがちだと思います。

そうやって、五感に感じるものと、これにまつわる欲ばかりを追いかけていると、なかなか神様を思わないし、ましてや守護霊様の献身的な働きは知る由もないですよね。

それでも、守護霊様は見捨てないで、できる限りのことは、して下さるそうなんです。

いわゆる、菩薩のお役目です。

但し、お守り下さると言っても、何でもかんでも肉体人間の勝手な望みのために、都合をつけてくれるのとは違います。

例えば、肉体人間のご都合主義に沿って=肉体的物質的な私欲に沿って支援するのではなく、長い目で見た霊性の開発に通じる霊魂魄の成長に配慮をしながら、支えて下さるようなのです。

例えば、大酒飲みの悪癖がどうにも止まず、放って置けない、このままでは命を落としてしまう、といった場合には、ちょっと病気にさせて悪癖を直してしまう、などの練磨もあるらしいです。

つまり、何でも欲望を叶えてくれたり、貧乏や病気からすぐに助けてくれる存在ではない、と。

守護の神霊様の主眼は、早く業想念を消し去ることなので、そのはからいごとは、肉体人間が考える我欲に基づく欲望成就や苦難脱出とは、基本的に無関係なようです。

だから、場合によっては、厳しいお試しもある(泣)、と。

霊性の開発が真善美に少しずつでも近づいていく、霊魂魄の修行なので、これはある程度予想できたことですけれども(私などは、まだまだ欲が捨てきれないので、ちょっと残念です。すべてがありがたいと感謝できる境地には程遠いもので)。

とはいえ、やはり、私達肉体人間が肉体=人間との誤った認識が元で、自己保存の本能に起因して生じさせるおびただしい業想念(五感にまつわる真善美に悖る我欲)を常時祓(はら)って下さっているだけでも大変なご加護を頂いている訳で、ありがたい存在であることは確からしいのです。

という訳で、世界平和の祈りと共に、守護の神霊に感謝を捧げるに越したことはないと思います。

そして、この感謝行も、先に述べた世界平和の鳴り響きのように、自然になされるようにするのが、より望ましいと言えるでしょう。

以上、簡単ではありますが、霊性の開発の実践と世界平和の祈りについて書かせて頂きました。

浅学ながら、五井先生のいくつかの本を読んで、理解した範囲でまとめてみました。

KI さんが、もし、神様について考えたい、輪廻転生を始めとした霊的真理を探求したい、と思われる時期がきた時に、宗教ならびに信仰生活についてのお考えの参考にして頂ければ、幸いです。

なお、五井先生の著作に興味を持たれたなら、私見ながらとっかかりとして、五井昌久講話集 1 ~ 5 (白光出版)を読まれることを、オススメします。話言葉で非常にわかりやすいし、面白くてスラスラ読めますので。

強いて言えば、1 巻がやや堅く、2 巻以降が一般的には馴染みやすいかもしれません。

1 巻を通読するとわかりますが、五井先生の信仰はかなり気高い精神が根底にあることがわかります。

KI さんのような難解な文章を得意とする知性が高く精神が強い人は、行動派とはいっても、スジを通すことが大好きで理屈に走りやすいでしょうから(ごめんなさい)、理論を云々するよりも、中身こそがすべてであり、想念、従ってこれから派生する行為こそがすべてであることを、より深くご理解頂きたいと願ったからです。

そのためには、あの講話集はうってつけの教材だと感じました。

また、更に仏教の浄土門妙好人の人達の生き方についてお知りになりたい場合には、一般的な書物もいくつかありますが、より系統立てて理解するために、同じく五井先生の、生きている念仏(白光出版)をオススメします(講話集に比べると、文章表現がちょっと丁寧過ぎるきらいはあるかもしれません)。

一般的な仏教の浄土門系の妙好人関連の書物は、どうしても、肉体=人間の肉体人間観と、因縁因果は現世内完結という、双方のものの見方を前提とした部分が散見されます。

なので、まず、生きている念仏で、人間の本質は神様の分霊(わけみたま)、霊魂魄であり輪廻転生(生まれ変わり)をすること、そして、因縁因果の大半は隔世をまたいで作用するというと基本を、しっかりと押さえてから、一般的な書物に進まれた方が、混乱せず、より確実に理解できるものと思います。

私の各方面の知的力量が足りず、表現が冗長で、かなりの長文になったこと、そして、ご無礼の段、平にお許し願います。

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(*)・艱難(かんなん)は、困難にあい、苦しみ悩むこと。つらいこと。難儀。
(用例)艱難汝(なんじ)を玉にす~人は多くの困難や苦労を経験することによって、立派になる。

・艱難辛苦(かんなんしんく)~困難にあって苦しみ悩むこと。


1-KI-151205-3-霊性の開発とその実践の補足

先 ( 1-KI-151205-2-霊性の開発とその実践 ) に、、守護の神霊である、守護霊様と守護神様が、業想念を祓う(=浄めて消して下さる)と、書きました。

想念が現実化すること、従って業想念も現実化すること、また過去世や消えてゆく姿については、もし機会があればまた書いてみようと思います。

今までの説明で、ほぼ、おわかりになるとは思いますから、気が向いた時になるとは思いますけど。

とにかく、信仰の仕方の概略を把握して頂くことが最優先だと思いましたので、これで十分だとも思いますので、一応、ここまでとします。

あらかじめ、ご了承願います。

これも、あくまでも私見なのですが・・・。

五井先生の代表的な書物とされるのは、おそらく「神と人間」(白光出版)だと思います。

しかし、これを読むのは、霊的な用語や意味がわからなくとも、五井昌久講話集 1 ~ 5 (もしできれば、全部読んで下さい)を何回か読んで、何となく感じがつかめてきてからにした方が良いのではないか、更には、信仰の要諦を把握するためにも、「生きている念仏」を先に読んでおいた方が、入りやすいのではないか、と感じました。

先の霊性の開発とその実践の内容は、この二つ( 「五井昌久講話集1~5」と「生きている念仏」 )が中心になっています。

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KI さんについて書いたコメントは以上です。

次回は、KD さんについて書いたものを載せます。

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①追記: 2024/03/19 22:32
②追記: 2024/03/20 03:53
③追記: 2024/04/19 18:33
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。