おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

019_難解聖書

神とは、そして聖書とは?

もし、ネガティブな世界観を良しと仮定するなら、ヒントは大きくわけて 3 つある。

1.エロヒムで神は複数形であること
2.神は自身に似せて人間を造ったということ
3.お決まりの終末思想。

これらが、一体、何を物語るのか?

残存する書物は、常に当時の政治的事情で書き換えられた可能性があること(古くから編纂でモメている)を考慮すべきである。

悲しいことだが、唯物論を究めようとするなら、人間の手が加えられた以上、改変など(つまり改竄)を疑わなければならないのだ。(*1)

それでも、内容を 100 パーセント復刻するのは、至難の技だろう。

残念なことに、ごく一部の例外を除き、史実の合間を冷徹に推理、補完しながらでしか、真実に近づく術がないからだ。

聖書より明らかに古い年代の神話で、方舟に酷似した話がある。

これは一例だが、好意的に取れば、同じ内容が当時の各国に時間差を経て別れて伝播されたとなるが、果たして事実はどうなのか。

本当のところはわからないのだ。

霊感、残存書物にかかわらず、肉体人間の手が加えられた以上、疑念を払拭するのは困難なのではないかと思ってしまうんですよ。

ちなみに、私はシッチン説は違うと思う。

更に言えば、暗黒想念行為の応報では、平安は訪れないとさえ考える。

残念ながら?ゼカリア・シッチンやデーヴィッド・アイクでは、神様への揺るぎない確固とした信仰は持ち得ないのだ。

絶対に。

特に、ムーンマトリックスの一連本を読んでいると、そう簡単に対処(対抗?)などできるとはとても思えない(つーか、無理でしょ、あんなの。唯物論的に対抗なんか絶対にできっこない。他の惑星に行ける技術が実は既にあったとしても、だ)。

著者には悪いが、最終的にブッ飛んだ方向に話を持って行き、超絶望でもさせるつもりなのか?と訝(いぶか)しく感じてしまう。

ゼカリア・シッチンやデーヴィッド・アイクのような説、更には人類養殖説が浮上してくるのは、あまりにも争いや破滅ばかりが続き、地上天国ができるまでに、時間がかかり過ぎるせいだと思う(今回は、7 回目のチャレンジらしい)。

心の奥底では、神様を信じていても、病、争、貧、苦に耐えられないと、神様の絶対性を疑うようになってしまうからだ。

肉体人間観を超えて、極度のネガまでをも含む起きてくるあらゆることに対して、本当の敬虔な信者のように神様の思し召しと、あるいは、妙好人のように阿弥陀如来様のおはからいと、心から素直に感謝しながら生きて行ける人は、まだまだ、ほんの一握りに過ぎないと思えるからだ。(*2)

そこに入り込む形で、地球外生命の関与、しかも、極めて自己保存色の濃い唯物論を持ち出されたら、神様の絶対性を疑い、迷う人が出る可能性は十分にある。

こう考えてくると、神様が真善美に悖らない絶対者たる存在だと、整合させる(辻褄を合わせる)ためには、この地球がすこぶる厳しい霊魂魄の修行場だとするしかない、と考えられるのだ。

肉体人間に、強烈な自己保存の本能を持たせたことが神様のご経綸の一環ならば、争い、混乱が中々収束せず、地上天国化まで、途方もない長い長い時間がかかるのも仕方がないと諦めるしかないか、と。

それに、神様が私達をこの世に送り出した以上、当然、愛情と責任はある訳で、そのために、守護の神霊を遣わしたこととも符号する。

ただ、我欲にまみれた肉体人間のさせるままにして、相争い、簡単に滅亡させても構わないとお考えなら、わざわざ、守護の神霊を配されるはずがないからだ。

よって、神様は私達のためにあらゆるものを用意して下さり、分霊としての私達の成長を見守って下さっていると考えられる(とは言うものの、地上天国に全然辿り着けず、修行が厳し過ぎるんじゃないかなあ、と個人的には思うけど)。

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(*1)まあ、ここまで極端でなくとも、散逸されたイエス関係の物語を補完???するグノーシス文書とか、そんな感じのものは、間違いなくある(ようだ)。

あまり考えると訳がわからなくなるし、それだけでも膨大な時間をとられてしまう。

研究肌の人や、好きでたまらない人には、面白いんだろうけど、私ごときからすると、これだけでもちょっとなあ、と思うのですよ。

残っている文書だけでも、すごい量だし、箇所によって内容の濃淡の差も激しすぎるし、旧約の内容もウーンだし、モーゼはアレだと書いてあるし、福音書も結構趣の異なるものが混在してるし、黙示録は怖いし、・・・これらを体系化すべく研究するのって・・・。

とてもやってられません。(*1ー1)

大蔵経(一切経)もそうですが、内容が複雑で多岐にわたりすぎ、あまりにも大部過ぎるんです(仏典には、性経典?や終末経典?がある。しかし、それにしても、聖書は理解に苦しむ?記述内容が多いのではなかろうか)。

私はトロくて鈍才だが、仮に私以下の人がいたとすれば、これらの研究だけで生涯を費やすことになるだろう。

否、生涯かかったって、その何分の一ですら解明できないだろう。

なぜなら、今まで沢山の研究者や(正否はともかく)膨大な資料がありながら、混沌とした状況なのだから。

そもそも、真善美に、神様のみ心に適った想いや行いをするための手段が目的を食いつくしては、本末転倒なのではないだろうか(と勝手に思っている。まあ、好きな人はそれでも飛び込んでいくんだから、よほど知識欲が旺盛で研究熱心なのだろう。色とりどりの矛盾に満ちた物語に惹かれるのかもしれないが、ほどほどにしないと。こんな時代なんだから・・・)。

もし仮に、地球上のほとんどの人の霊性が開発し尽くされ、かなりの人が漏尽通を発揮できるほどのレベルになれば、当然に地上天国はできるだろうし、そもそも、こういった整理しきれない?大部の経典で、ゴタゴタしたり迷ったりすること自体がなくなるだろう。

外見、人格、霊能、体力、知性の全てにわたって調和がとれ、優れたものになるのだから、一瞬ですべてが通じるし、矛盾のない簡潔できれいで自然な信仰体系が出来上がっているはずですからね。

ところで、かつて紹介されて知り合った、キリスト教徒の若人(大人)は、ホントに良い子、善男善女でありました(綺麗で、よく話かけてくれた親切な I さんもいた。彼女は、かなり読み込んだ跡のある聖書を持参していた)。

グレたり、崩れたり、ヒヤッとした不信感を抱かせる雰囲気やオーラが全くなく、職種は別々でも、本当に素直に育ったお坊っちゃん、お嬢ちゃんだな、という感じだった(たまたま、彼らだけがそうだったのか否かはわからないが)。

もちろん、強引な勧誘や押し付けも一切しなかった(多少、聖書の身びいき的なことを言っている男性はいたが)。

だが、彼らが本当に深く網羅的に聖書を読み込んだのか、数ある疑問点や矛盾点をどう考えているのかは、聞かずじまいで、疎遠になってしまった。

洗脳?(ゴメン)されているのか、気づかないのか、知らないのか、わからずじまいだった。

あと、彼らは良い子なので、過去にキリスト教がどのように利用され、何をしてきたかを質(ただ)すことも、どうしても気後れしてできなかった(単に、俺が意気地なしだっただけかな)。

今となっては、たまに思い出す度に、彼らの天命を祈って差し上げることしかできないが、とにかく、爽やかな人達でありました。

(*1ー1)というか、もしあの記述が事実なら、体系化以前の問題がありはしませんか?

敬虔な方には申し訳ないが、どう考えておられるのでしょうか?

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(*2)だから、こういった人達は、釈迦の前世ではないが、人様を裁いたり、批判したり、俺は何々教徒だとひけらかしたり、ましてや、威張ったりしないはずだ。

無抵抗でありながらも、自然に神様の光を振り撒き、周囲を感化していくことになるのだろう。

ただ、神様と一体化する(実際は、少しでも近づけていく)ために、たゆまない祈り(み心の如くなさしめたまえ、南無阿弥陀仏など)は、欠かさずにしているものと、思われる。

しかし。

肉体人間は、おおむね喜怒哀楽が激しく、派手なことも大好きで、勧善懲悪や降魔の剣ものの単純なストーリーにはまりやすく、財欲、肉欲に溺れやすい。

そんななかで、霊性の向上、ましてや、人類全体の霊性の水準の底上げまで担うには、地道な努力が不可欠になるはずだが、果たして、霊性の開発に励んでいる方は、どのくらいおられるのか・・・。

勝手な希望で申し訳ないのだが、私は自分より様々な面で遥かに恵まれていたり、様々な能力がある力のある人達を見るにつけ、こういう人達こそが、(地味で面白くないと感じるからかもしれないが)霊性を開発してくれたら、どれ程ありがたいことか、霊的な意味も含めて社会にどれだけいい影響が及ぼせるか、と思うと残念でならないのですよ。

愚痴ってしまって、ごめんなさい。

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①追記: 2024/03/20 05:40
②追記: 2024/03/29 02:15
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。